聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

どこへ行ったの? 聖地巡礼(1)

こんにちは、少しご無沙汰の管理人です。
さて、お待たせいたしました!
昨年の2013年9月18日、朝日カルチャーセンター中之島教室で行なわれた内田樹釈徹宗先生による『聖地巡礼ビギニング』の発売記念対談をアップさせていただきます(つまり、第4回目の巡礼が終わった後、ということになります)。管理人が冒頭にあれこれ書いてもあまり意味がないので、とにもかくにもお楽しみください!
いきなり内田先生のアクセル全開のトークに注目です。

 

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○最近のトピック
釈  さて、例によって出だしは、雑談から入りたいと思います(笑)。最近の面白いトピックスなどはありますか。
内田 今朝、近所に住んでいる朝日新聞の人が取材に来たんです。「出社前にインタビューしたいんですけど」って依頼してきたの。横着な記者だよね(笑)。僕も負けずに横着なので、「何だったっけ、今日の取材?」って聞いたら、「聖地巡礼です」っていうので、ちょっと驚きました。『聖地巡礼ビギニング』を取り上げて記事にしたいというんですよ。「この本、すごく面白いですね」って、僕たちのこの企画の本質をよく理解してくれていたのでうれしくなっちゃって。
 それでつい風呂敷を拡げて、日本的霊性の発動とか武道と能楽とか、西洋と日本の文明の自然観の違いとか、現在はある種の文明史的に危機的な状況の中にあって、その理由は先人たちが培ってきた自然や「人間を超えるもの」と対峙するときの伝統的な作法を現代人が忘れているからだ、と。そういう話をしたんです。

○西洋と日本にとっての自然
内田 ヨーロッパにおいて自然は、攻撃的で威圧的なものとして観念されている。だから、人間は、それと対立し、攻略し、支配し、収奪しようとする。ですから、その場合にはテクノロジー、科学技術が人間と自然の間のインターフェイスになる。人間と「人間を超えるもの」との間を架橋するものが「機械ベース」なんです。機械的なものを介在させることによって、自然の巨大な力を人間世界の中に取り込み、有用なものに変換させる。
 でも、日本は違う。それはこの温帯モンスーンの列島の自然がヨーロッパのそれよりもはるかに人間に優しいからです。列島の自然は温和で、融和的で、共生可能なものとして人間を受け容れてくれる。自然と人間世界のインターフェースがとても柔らかいんです。だから、自然の大きな力を取りこむために使ったインターフェースは機械ではなくて、身体だった。自然と人間世界を架橋するものが「整えられた身体」だった。だから、自然から大きな力を採り入れて、それを人間にとって有用なものに変換することをめざした人たちは、機械を作るよりもまず自分の身体を整えた。感受性を高め、運動精度を高めて、自然と人間世界の間を架橋できるだけの能力を開発しようとした。
 その「身体を整えるシステム」が平安末期から戦国時代にかけてしだいに完成されていった。平安末期に武芸がまず整備され、鎌倉期に仏教が土着化し、室町時代能楽が完成した。これらはどれも身体を供物として捧げることで強大な野生の力を人間世界にもたらしてくるための技術だったと僕は理解しています。
 でも、いまの日本ではそのような伝統的な文化はもう壊れている。西洋のように自然と人間の間はもう「整った身体」ではなく、「性能のよい機械」が媒介しています。自然と人間世界の間を媒介するのが生身の身体であるというのは、とても大事なことだったんです。人間的スケールを超えるもの、人間の身体をどれほど拡大しても強化しても「それ」を通すことができないものは、人間世界には入ることができなかった。でも、媒介するのが鉄やコンクリートでできた機械なら、人間の身体では耐えられないものも人間世界に入り込んでくる。
 人間の身体では架橋できないにもかかわらず人間世界に入ってきてしまったもの、そのその最たるものが原子力です。福島の原発事故は「身体ベース」で野生の力を採り入れるという文明史的な伝統を日本人が失ったことの帰結だったと思います。その伝統を失ったせいで、いま日本社会は次々とシステムが機能不全に陥り、瓦解しようとしている。日本人たちもだんだんそのことには気付きはじめていると思うんです。自分たちが人類史的、文明史的に間違った方向に踏み込んでいることに。
釈  その記者が聖地巡礼に注目したのは、そうした気付きとリンクしていると。
内田 そうみたいですよ。『聖地巡礼』っていうタイトルを見たときに、「あっ、これだ」って思ったらしい。「聖地」も「巡礼」も、どちらも我々の日常生活の中では死語なのにね。

○アニメにおける「聖地巡礼
釈  でも一方で、日常生活ではない意味での「聖地巡礼」という言葉自体はよく耳にしますよね。
内田 そうなんですってね。
釈  割とこう、「各分野」ですよね。オタクとか、アニメとかでも「聖地巡礼」って。
内田 なるほど。ちょっとその話をしてくださいよ。
釈  じつはよく知らないんですけど(笑)。『ガールズ&パンツァー』というアニメがあるそうです。それはある特定の地域を舞台にしていますが、その地域にあるお店の位置や店員さんまでもが忠実に描かれている。だから、そのアニメが好きな人はたとえばそのお店に行くことを「聖地巡礼」って呼んでいるんです。それは要するに、「その場に自分の身を置いて楽しむ」という行為ですね。
 文化人類学では、もう70年、80年ぐらい前にから、現代人の身体性はどんどん枯れていくだろう、といわれていて、正にその通りになってきています。「身体」と「場」は密接なものがあって、場に身を置かないと身体性は復活しない。アニメにおける「聖地巡礼」が流行っているのは、そういう感性が注目されはじめているということなのでしょう。

○アニメーターの直観
内田 アニメからはじまったっていうのが、ちょっと興味深いですね。アニメの場合なんて、記号でいいわけじゃないですか。「学校」を表現したかったら、「学校みたいなもの」をちゃっちゃと描けば済む。舞台になる学校がどんな建物であるかなんか、本来、ストーリーとあんまり関係がないはずですからね。にもかかわらず舞台を妙に写実的に描き込むということは実際にあるんですよ。
 カトリックの高校を舞台にした劇場公開のアニメで『空の境界』っていうのがあって、とてもびっくりしたんです。神戸女学院なんですよ。
釈  そうなんですか。
内田 ヴォーリズの設計した建物がそのままアニメに出てくる。実際に学校に取材にきて、写真を撮ったり、スケッチして帰ったらしいです。だから、アニメでもほんものとまったく同じように描かれている。アニメに自分の研究室がそのまま出てきたのでびっくりした先生が数えてみたら、ブラインドの数まで一緒だったんですって。
釈  ほう。
内田 すごいですよね、その執念。ほんとうにあるものを異常な精密さで再現しなければならないとアニメーターを衝き動かしていたのは何なんでしょう。だって、神戸女学院の校舎の内部を精密に再現しても、誰にもそのすごさはわからない。わかるのは神戸女学院の中にいる人間だけですよ。「おー、これ何だ!ほんものそっくり」って驚くだけの話なんです。
釈  作り手として、そこに労力をかける必要はないですよね。
内田 ぜんぜんないんです。にもかかわらず、そこに異常な手間暇をかけた。それはたぶん作家さんが直感的に、ヴォーリズという作り手が建物に注いだ情熱と、そこに暮らした学生や教職員たちが堆積させてきた愛着のようなものを感じ取って、それを精密にトレースすることで、何かこの建物が秘めている力を再現したいと思ったからじゃないでしょうか。精密に描けば、そこに出現するものがただの記号以上の力を発揮すると直感していたからなんでしょう。
釈  身を置いて初めてわかることってたくさんありますよね。今回、我々のこの聖地巡礼も、その場所に身を置くことでリアルに感じることを大事にしています。
内田 行かないとね。行かないとはじまりません。(続く)

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次回は6月6日ごろアップ予定です。お楽しみに!