聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

朝カル対談。全文公開します!(3)

さて、12月初旬という更新の予定はどこへやら……いつのまにか、年の瀬になってしまいました。忘年会やらクリスマスやらで街は騒がしいですが、静かに更新している管理人です。こんなふうなのが、個人的には落ち着きます(笑)。さて、朝カル全文公開もいよいよ第3回目、最後の更新となります! 今回はこれまでの巡礼を振り返り、今後の展望が見えてくる内容となっております! ではでは、じっくりとお楽しみください。

・・・

熊野のおススメ

釈 さて、話を戻しましょう。ナビゲーターの森本さんから見て、これから熊野に行かれるみなさんにおススメなどがありましたら。
森本 交通手段にもよりますが、まず起点になる田辺市から入って中辺路をめぐるという、今回の『聖地巡礼ライジング』のとおりの形が僕はベストだと思います。
内田 あの本のコースが標準的なんでしょうか。
森本 はい。僕の中での熊野ベストプレイスは、大斎原(熊野本宮大社旧社地)、那智の滝、神倉山、三重県の花の窟です。この4カ所が、それこそ誰が行ってもわかる場所だと思います。
釈 大斎原と花の窟はなんとも表現できないようなよい場所でした。
内田 ぼくはまったく予備知識も何もなく、ただふらっと行って「ここはすごい」という役ですが、大斎原のあの中州は素晴らしかったですね。本当に何にもないんですけど。
森本 ずっといたくなる。人もあまりいないですし。
釈 そういえば、内田先生は取材中ずっと熊野=バリ説をとなえていました。特に花の窟で。
内田 いってましたね。
釈 本宮大社の社殿が大斎原から山に移されたのは、長州の陰謀じゃないかとか。
内田 そんなこと、いいましたっけ(笑)。いずれにしても、熊野は海民文化と山人文化というふたつの異なる文化が混交して、そこにすごく豊かな宗教文化が開花している感じがしました。
釈 本当に平地が少ないんです。海からあがるとすぐに断崖絶壁がある。
森本 僕が結婚するとき、うちのかみさんのお兄さんが「熊野には平地がないから、山で転がると海に飛び込むことになるんじゃないか」って冗談をいってましたよ。
釈 その独特な地形が、山人系と海人系を交差させたということはあるでしょう。しかも、それは川を遡ることで生まれた。
内田 熊野は川の文化でもありますよね。川が主要な交通手段であるという。
釈 一度破れた神武天皇は、熊野からもう一度大和に攻め入りました。しかも海には、黒潮も流れています。
内田 いまの行政単位は都道府県ですが、古代の行政区分である「五畿七道」は土地ではなくて、物流を軸に編成されたものですよね。ロジスティクスのラインが「道」なんです。その時代の人たちの空間理解は現代人とはまったくちがっていたと思うんですよね。たとえば新宮の人にとっては、黒潮に乗ってすぐに行くことのできる千葉の房総半島は、地理的に距離としては遠いけれど、身体感覚的にはすぐ近くにあった。大阪や京都より近い場所として認識されていた。実際のそこまでの移動に要する時間や労力といった自分の身体感覚を基準にして空間認知をしていたと思うんです。「身体感覚をベースにした地図」があったら、中世のコスモロジーはかなりわかりやすく表象されると思うんです。誰かがつくってくれないかな。
釈 古代の人たちの空間認知地図ですか。北九州の西側あたりは、近畿圏よりも朝鮮半島のほうがずっと近い地図となるかもしれませんね。

古代人の空間認知

内田 面積についてもいえるかもしれません。空間の広がりとか奥行きって、その土地が持つ「意味」によって変わりますから。
釈 意味のでかさとなれば、大斎原などはかなり広大なフィールドになりそうです。
 最近、北陸新幹線が開通したでしょう。いままで北陸は関西文化圏のようなイメージをもっていたのですが、これからは石川・富山あたりの人は、東京のほうが近い感覚になりそうですね。現代でも「空間認識地図」を作成すると面白いかも
森本 そういう意味では、東京を起点に考えると紀伊半島南部は、交通機関の所要時間で地図をつくったらかなり遠いでしょうね。
釈 福岡とかよりもずっと。
内田 もっと遠いんじゃない。
釈 下手したら鹿児島の先くらいになるかも。
森本 たとえば東京から新宮に行こうとすれば、白浜空港を使って、レンタカーかJRを使うことになります。羽田から白浜空港まで飛行機で1時間、白浜から新宮までが車で約2時間で合計3時間。新幹線なら乗り換えがスムーズにいっても、5~6時間はかかります。
内田 それは名古屋で乗り換えた場合ですか。
森本 はい。いまの感覚ですと、東京―北京間のほうが近いでしょう。
内田 なるほど。
釈 我々も熊野は遠いって感じました。いとうせいこうさんは毎年熊野大学に行かれていますが、「とにかく熊野は遠いんですよ」とおっしゃっていました。
内田 しかし、古代人には京都から大阪を通って熊野に至る道が見えていた。
釈 ほとんど修行のような難行苦行の行路ですけれども。出発する前には、「それほど苦労してもなぜ熊野に何度も行くのか、なぜこもるのか。これが解明すべき謎だ」などと言っていましたが、先ほども申し上げました通り、行ってみたらすぐわかってしまった。
内田 解明の必要がなかった。いいから黙って訪ねなさい、という。
森本 みなさんもおいでいただけたら、間違いなくなんらかの感動をお持ち帰りになられると思いますよ。
釈 地元にお住まいの森本さんでも、熊野の聖地へはときどき行くんですか。
森本 最近はよく神倉神社や花の磐に行きますね。ある用事があって昨日も大斎原行きました。やはりいい場所ですよね。
釈 一遍はそこで熊野権現に出会ってある種の悟りを開きますが、そういう体験が起こっても不思議でも何でもない場所ですよね。
森本 大斎原は中上健次さんが大変お好きだった場所です。中上さんが仕掛けた火をつかった野外劇を行ったのが、本宮大社が初めて外部に貸し出したイベントなんですが、当時はなんと一部にゲートボール場があったんです。
釈 そうらしいですね。でも、あそこには下手なものを建ててほしくはないですよね。変なもの建てるくらいなら、いまのままの何もないほうがいいです。森本さん、今日は本当にありがとうございました。

佐渡と能

釈 我々の聖地巡礼は次回、佐渡に行くことになっています。以前から内田先生が訪問を希望されていた場所のひとつです。佐渡のどこをご覧になりたいんですか。
内田 世阿弥が流された場所ですからね。だから、佐渡には、三十数カ所も能楽堂があります。都道府県単位としては最多なんだそうです。
釈 かつては200以上あったらしいですよ、あんな小さな島に。ちなみに大阪にどれくらいあるんですか。
内田 行ったことのあるのは大阪能楽会館と大槻能楽堂山本能楽堂くらいですね。そう考えると佐渡ってすごい。
釈 びっくりするような数字です。
内田 鎌倉末期から室町時代にかけて発達した能楽は、大地のエネルギーが身体を通して発現する芸能です。とにかく地面に近い。足裏で地面を探りながら進む。だから、足裏から強い波動が送られてくる環境でないと成り立たない。だから、佐渡はきっとすごくバリバリくるはずなんです。
釈 現在の能の中で、佐渡が関係する演目とかあるのですか。
内田 僕は聞いたことないですね。あるかもしれませんが……。
釈 世阿弥自身は佐渡に流されて小謡集『金島書』をつくっていますが、いま歌ったりしないんでしょうか。聞いたことがなくて。
内田 僕もないですね。とにかく佐渡ではお堂を見てみたい。以前、山形の黒川能の家元と会って対談したら、僕の知っている能とまったく違いました。黒川村の人たちは、土着の伝統芸能として何百年も前から全員、能楽をやってきて、年に1回の祭祀のとき、農家や林業といった普通の生活をおくる人が1日何番も能をされる。お会いした家元も中学校の校長先生をされていた方でした。先代にしこまれるのが嫌になり東京に行ったけれど、東京の能を見るうち、自分の家の黒川能を継がなくてはと決心したそうです。だから、能って、その他にも各地に伝播して固有の発達を遂げているはずなんです。舞台の構造も、型も謡の詞章も違う。散逸した古曲だって地方にはいろいろあるんだと思います。
釈 能舞台にも違う形態のものがあるんですか。
内田 黒川能は違うんだそうです。橋懸かりの方向が違うので、普通の能楽堂では左右逆転するので、とても困るとおっしっていました。
釈 そうなると佐渡でも――
内田 固有の能があるんじゃないでしょうか。
釈 それはぜひ観てみたい。
内田 能五流は観世、金剛、金春、喜多、宝生の五流ですが、実際は各地に散らばって、固有の発達を遂げている。
釈 でも、佐渡で暮らしている人って、数だって知れていますでしょう、きっと。
内田 能楽堂だって手づくりでしょう。能を舞いたい、歌いたい、って。
釈 たくさんの能舞台があるので、島の人みんなが、役者になったり、謡曲をやったり、観客になったり……。
内田 そんな感じだったんでしょうね。
釈 私は佐渡日蓮を手元に引き寄せたいんです。佐渡での日蓮の生活を支えた人々は、島を行き来する海民系の集団も少なくなかったでしょう。そんな人々の心性と、日蓮の法華信仰が絡み合う。日蓮にしても親鸞にしても、流刑地の生活がその後の思想構築に大きな影響を与えています。佐渡期の日蓮は、過酷な環境下におかれながら、伝道教化し、論争し、著述を続けました。佐渡に身をおくことで、少しでも何かを感じ取れればと思っているんです。
 そういえば、佐渡良寛にも関係あるようです。良寛は新潟の人ですが、母親が佐渡出身です。そして新潟は親鸞が流罪となった場所であり、浄土真宗がとても盛んです。なにかいろいろクロスしそうな予感があります。
内田 濃いですよね。北一輝佐渡ですよね。
釈 魔王と呼ばれた男ですからね。とにかく佐渡は濃そうです(笑)。
内田 なにかありますね。でもあまり予備知識持たずに行ってみようと思っています。

屈折

釈 昨年は日本のキリシタンをめぐって聖地巡礼しましたが、そちらについて少しお話を聞かせてください。メインは長崎のキリシタンでしたが、大阪や京都のキリシタン関係にも行きました。
内田 本当は五島にも行きたかったんですよね……でも、長崎だけでもすごいものを見たという感じはあります。
釈 どう扱ってよいのか……。うまく言語化できないというような。
内田 われわれの持つ宗教学的な枠組みではまったく消化できないですからね。隠れキリシタンの人たちだけが探り当てた鉱脈、日本文化の古層があるような気がします。
釈 信仰がシンプルに表出していない。屈折している、重層している。まっすぐに行かない。きれいにまっすぐ行く道がないといいますか。
内田 キリスト教は、精緻な体系や教理を持つかなりロジカルな宗教ですけれど、それが温帯モンスーンのねばねばした日本の「感受性」と出会ったとき、独特のアマルガムができた。阪神パークにむかし、ヒョウとライオンを交配させて生まれた「レオポン」っていましたよね。隠れキリシタンはそんな「レオポン」みたいなものじゃないかって思うんです。そんなふうに誕生した新たな種が、その後も迫害されながら生き延びていった。
釈 本場のキリスト教国から隔絶されても、アンダーグラウンドに信仰を続けた。そのたたずまいは「異様」といったら言葉は悪いんですが……。
内田 過酷なまでの弾圧下で何百年間も孤立した状態で信仰を続けるメリットなんて何もない。だから、その信仰は取り出すことができないほど深く内面化・身体化していたと考える他ない。
釈 ナビゲーターをしていただいた下妻さんはクリスチャンではないですが、おっしゃっていましたよね、長崎で生きるわれわれは全員、一度は転んだ人間の子孫なんですって。
内田 いってましたね。
釈 転ばなかった人はみな殺されたわけですから。そう考えると、長崎の聖地はなんと屈折しているんだろうと思います。
内田 そうですね。
釈 そもそも日本人のクリスチャンは屈折している人が多いんです。あ、すいません、今日、クリスチャンの人もおられるでしょうが。私の知り合いだけかもしれないですが(笑)。でも、クリスチャンとしての信仰と、日本宗教文化的な心性と、うまく折り合いがつかない人はおられます。たとえば遠藤周作などはそういう人でした。でも、それも長崎のキリシタンに比べると……。
内田 そんなもんじゃないですよね。
釈 二重三重に屈折しています。
内田 そして原子爆弾まで落とされました。長崎の欧米文化を象徴していた浦上天主堂に原爆を落として粉砕するのって、キリスト教文明のおのれ自身に対する暴力ですよね。
釈 長崎でもキリスト教徒が多かった地域に原爆が落ちているんです。長崎のキリシタンは何度も迫害された挙句、最後のとどめのような形で原爆の被害にあいました。
内田 皆さんあまりご存じないですが、長崎の戦国大名だった大村純忠が、自分の領地を安堵するためにイエズス会に寄進したことがあるんですよ。長崎はかつて日本唯一のイエズス会領であった。キリスト教が極東まで及んだことの、いわばキリスト教の欧米から見ると「普遍性」を表象するのが長崎という場所なんです。そこにアメリカは原子爆弾を落とした。これはぼく、宗教史的にはものすごく象徴的な事件だったと思うんです。
 それにこれはあまり指摘されないことですけれど、この時期は歴史上、とても重要な転轍点だったと思うんです。大村氏が長崎をイエズス会に寄進したように、自領を守るために有力者に名目的に荘園を寄進することは日本では昔から行なわれていたんです。平安時代だったら、貴族や寺社に荘園を寄進して形式的な所有権を譲る代わりに現地の豪族が「代官」として実効支配する。そういうことはふつうに行われていたわけです。大村氏の場合はたまたまその寄進先がイエズス会だったということに過ぎない。だからもし、大村氏のケースがうまくいって、イエズス会や他の修道会に寄進しておくと安定的に領土が保全されるという話が広まったら、西国の大名たちがこぞって領土を寄進したかもしれなかったんです。そうすると豊臣秀吉の天下統一だって危うくなった可能性がある。そういう意味でも、16世紀末は日本の歴史の転轍点だったと思うんです。わずかなきっかけで近世以後の日本の歴史がまったく変わったものになったかもしれない。長崎はそのときの「実現しなかった歴史」との分岐点だったような気がします。
釈 いずれ「聖地巡礼 キリシタン編」が発刊されたら、われわれがキリシタンの屈折ぶりを目の当たりにして、うろたえている状況を楽しんでいただけるんじゃないかと思います(笑)。
内田 そうですね(笑)。
釈 きょうはこんなところで終了にしたいと思います。
内田 みなさまどうもありがとうございました。
・・・
実は、ご存じの方もいるかと思いますが、対談では「次回は佐渡」とお話されていますが、先日の「聖地巡礼フェス」において、植島啓司先生の推薦により次回の訪問先が「対馬」に急遽、変更となっております。このような変更は、実際の巡礼でいろいろ起こっております。寛容な読者のみなさまは、どうぞ温かく見守っていただければと存じます(いずれ訪問する予定ですし)。ではでは、来年からは、今年の夏に行なわれた聖地巡礼フェスの管理人レポートを順次公開していく予定です。こちらもお楽しみに。ではみなさま、佳いお年をお迎えください!(管)