聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

聖地巡礼フェス 第3回(植島啓司先生)

 さて、前代未聞の「聖地巡礼フェス」レポートの第3回、ラストを飾るのは、聖地研究の第一人者である植島啓司先生です。管理人は植島先生の本が大好きで、ご講演を拝聴できるのをとても楽しみにしておりました。
 今回はとくに「あぶない」話が連発したため、なかなかご報告できない事柄もありますが(笑)、ぜひぜひレポートをご堪能いただければと思います。今回は掲載しておりませんが、鼎談の最後には、髙島先生にも加わっていただいております!

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第1部 「龍穴と聖地」 ~植島啓司先生 ご講演~

 なんか寺子屋みたいですね。さて今日の発表の原点となるのは、バックミンスター・フラーの『宇宙船地球号』という本です。
 それまで、アジアとアメリカのあいだの人類の大移動は、アリューシャン列島からアラスカへと陸路でつながっていた時代に行なわれたというのが定説でしたが、それよりはるか以前に互いに海で交流があったということヘイエルダールがまず証明し、そしてフラーが同書で世界の主要な文明はすでに航海によって結ばれていた、つまりかつての交通はほとんど海路が中心だった、ということを提起しました。ちなみに、最初に文明が発達した場所はパレスチナやエジプトなどのメソポタミア文明ではない、と提起したのもフラーです。
 また、彼特有のダイマクションマップによると、アジアは地球上で5パーセントしか占めていないのに、人口の54パーセントが密集している。ここから遠ざかるほどに人口密度が小さくなる。つまりアジアはもともと人口圧力が強くて、人々が古代から住んだ場所にあたるんじゃないか、ということについてもフラーは『流体地理学』という論文で提示しています。
 東南アジアは、昔はかなり大きい大陸でそれが沈んでバラバラの細かい島になったことは考古学ではよく知られていますが、フラーはそこに住んでいた人が分散して分かれて北上していった4つの流れが人類最初の移動だと考えました。だから東アフリカが人類の大本ではない、という危ないことを言ったわけです。この流れをずっと考えていると、柳田國男の『海上の道』などの記憶とどこかで結びついているのではと思ったりもします。
 僕は調査をしていて倭人に興味を持っているのですが、「倭人」とは7世紀くらいまでは、やはり南からあがってきて、中国の江南地方から朝鮮半島、そしていまの日本列島に住み着いた人々のことを指しています。つまり倭人は日本人の原型ということではなく、「海の民」なのです。漁労技術が異常に発達していたことは『魏志倭人伝』にも書かれていますし、『漢書地理誌』にも書かれています。その中の一部が、日本列島を統一した人々と重なっていることは言えるのではないかと思います。そういった意味で、折口信夫が「『記紀』の回りには海の匂いが濃厚にまとわりついている」というのは、神武天皇が海の神様の子孫であることを指しているのではないでしょうか。
 さて、日本の聖地は水分とか水源に近い場所に聖地があるということは知られていますが、と同時に、龍穴に対する信仰がひとつのエッセンスになっている。そして、海洋民族である龍神をトーテムとする人々がいわゆる「水の女(みずのめ)」と交わることによってこの世界を新たに生み出すという行事が日本の宗教儀礼の根底にあるのではないか、とも考えています。
 折口に『水の女』という有名な論文がありますが、水の女天皇即位式である大嘗祭天皇が即位の霊のあと初めて行なう新嘗祭)登場します。神様と水の女が交わることによって、天皇の霊が生まれるという形で、天皇が替わるごとに繰り返されるわけです。行事のエッセンスや行なわれる場所の原型を追いかけていくと、日本の宗教で展開したいろいろなバリエーションを読み解いていくことができるわけです。

 第2部 鼎談  ~植島啓司先生・内田樹先生・〈司会〉釈徹宗先生~

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 2つの世界をブリッジする

 さて、植島先生の時代を超えた大きなスケールのお話を聞いた内田・釈両先生は興味津々です。
 まず、釈先生が「倭人の原初的な信仰としてどのような信仰が考えられるのか」と植島先生に尋ねます。植島先生の答えは、「入れ墨がいちばん印象深い。中国ではとくに異様な習俗として映っただろう」というものでした。
 内田先生もそれに同意して、「漁労もそうかもしれない。そしてたとえば入れ墨で魚の鱗を模すといったことで、魚類と中間的なもの、2つの世界のインターフェイスとなる部分をブリッジする。武道的には自然のほうに人間を似せていくというのは、割と基本的なことではないか」と続けます。
 一方で、釈先生は逆の視点を提示。「原初的な生活をしている人で、ほとんど丸裸で暮らしていても、何も隠せていないのに、ひもを1本巻いていたりする。これが最後の人間と自然との境界線を示している」という違った側面を指摘します。 

こもる

 熊野編で話題になった「こもる」ということについては、植島先生は「祈りなどよりも先に、なによりも〈こもる〉という行為があった。おそらくこれが宗教的行為の原型だと思う」と、講演の龍穴に対する信仰と関連して明言します。龍穴については「避難所」としての側面もあるそうです。
 内田先生は修験道の例をあげ、「とにかく山道を歩いて滝行をして、あとはひたすらこもる。そこで焚火をして煙をモクモクたいて、そこで息もせずに耐え続けるのが初心者用のクライマックスらしい」と述べて、原初の宗教儀礼の原型をとどめている例ではないか、と述べます。
 続けて釈先生が「その割には日本列島の聖地や霊場と呼ばれているところで、洞窟のようなイメージはない。そこでは宗教施設がないことと関連しているからかもしれない」と言うと、植島先生は「宗教施設は社会的な意味は持つが、便宜的な施設であるだけで、その場所自体が特別な意味を持つわけではない」と話しました。

紀伊半島

 さてその後は、第2回目の髙島先生も加わって、鼎談の熱も加速していきます。かなり「あぶない」話でも盛り上がりました。掲載できる話の一部をレポートさせていただくと(笑)、やはり植島先生は紀伊半島の重要性を説明します。「日本の聖地のほとんど重要なところは紀伊半島にある。ほかの場所は紀伊半島と比べると散漫な感じがする」。
 釈先生も「そんな感じがする」と同意。植島先生は「中央構造線上に伊勢神宮諏訪大社などがあるように、自分たちの立ち位置がいつも意識されるようなところが、信仰が生まれる条件ではないか」と聖地の核心について言及しました。
 さて、そんな日本、世界各地の聖地をめぐってきた植島先生に、釈先生が「ここは行ったほうがいい場所とかありますか?」と禁断!の質問をします。答えは「対馬ですかね。対馬は日本の元の形、大陸とのつながり、いろいろなことが見えてくるんですよ」と答えます。すると内田先生は「なるほど。対馬合気道の多田先生のご出身なんです。よし、対馬にしよう。行きましょう」と即答! てっきり佐渡と思っていた管理人の心の声を文字にするとこんな感じでしょうか。
「がび~ん」(笑)
 そして、慈悲に満ちた、しかし、くすっと笑っているような釈先生の目と、管理人の目があったのでした……。
・・・
 さて、「聖地巡礼フェス」のレポート、いかがでしたでしょうか。最後は衝撃の結末でしたが(笑)、対馬って……楽しそうですよね。このように「次がどうか予測できない」のが、この「聖地巡礼」の楽しいところでもあります。さてさて、今後の展開は? 引き続き、随時みなさまにレポートしていければと思います!(管)

聖地巡礼フェス 第2回(髙島幸次先生)

 東京ではようやく春の気配を感じられるようになりました。管理人です。さて、前回に引き続き、「聖地巡礼フェス」のレポートです。第2回目は髙島幸次先生が「大阪の霊的復興」についてご講演くださいました。鼎談も含めて話を伺っていると、「当たり前に地霊はある」と自然に思えてきす。そんな空気が再現できていればいいのですが。

第1部「大阪の霊的復興」~高島幸次先生 ご講演~

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聖地のなかった時代

  今日は「大阪の霊的復興」というお題を編集者からいただいています。東京から見ると、大阪は宗教面だけではなく経済的にも劣化していて、復興しないとダメなようにみえているのかなと勘繰っています。私はあまり実感がないんですよ。宗教的には天王寺区の寺町に世界最大級の宗教施設の密集地があって、経済的にも県民総生産(GDP)の第2位を誇るのに、どうしてダメなんだろうか、と考えてしまいます。
 私は都市の性格を「都市格」といっていますが(一般には「都市の品格」の意味ですが)、政治都市、港湾都市、国際都市、商業都市、前衛都市、学問都市、工場都市・・・このように大阪は都市格を変化させながら発展し続けてきた町です。こんなに活力を発揮し続けた都市は大阪だけでしょう。これからどんな都市格に生まれ変わるのか楽しみなんです。それなのに、ダメだダメだと言うから「都構想」とかが出てくるんです。
 それはさておき、本題の「聖地」の話に入りましょう。まず、みなさんが行なっている「聖地巡礼」は、歴史的用語としては「霊地巡礼」ではないかということです。「聖地」って、実は訳語なんです。江戸時代の初めにポルトガル人がつくった『日葡辞書』に「聖地」という言葉は出てきません。それに該当する言葉は「霊地」「霊場」です。その一方で「聖」の字は「聖人」「聖賢」「聖王」などに使用されている。つまり、場所については「霊」を、人間については「聖」が使い分けられていたのです。「聖地」が一般化するのは近代にキリスト教の影響を受けてからなんです。以下では「聖地」を使いますけどね。
 縄文後期くらいまでの日本人は、森羅万象を一体化した心象風景に生きていましたから、「聖地」の意識はなかったはずです。「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行の有名な歌がありますが、このようなよく解らない固有名詞を持たない〈カミ〉が森羅万象の全てに存在していた時代だった。非人格的な〈カミ〉を非意識的に崇拝していたという感じです。ですから、そのうちの特定のある場所を「聖地」と意識することはなかったのです。

「ウチ」「ソト」「ヨソ」

 しかし、農耕を始めたことにより、〈カミ〉の意識が変わる。農耕により、森羅万象の中に人間の生活空間が区画されます。結果、農耕空間は「ウチ」と意識され、それまでの森羅万象は「ソト」と意識されます。このようしてあちこちに「ウチ」が成立すると、他の「ウチ」を「ヨソ」と意識するようになる。
 「ウチ」の空間には、特に昼間には、〈カミ〉の存在が薄くなりますから、「ソト」から「ウチ」へ〈カミ〉の降臨・来臨が必要になる。すると、「ウチ」の〈カミ〉と、「ヨソ」の〈カミ〉を区別するために、〈カミ〉には固有名詞が与えられる。こうして、「ウチ」のなかに聖地が生れ、「ソト」の持つ聖地性が意識されるようになるのです。
 このような心象風景の変化は、仏教の伝来時に、それを受け入れやすい下地をつくることにもなったのですが、このあたりは今日のテーマから離れますので省略します。
 大阪の話に移りましょう。現在の天満橋あたりは、かつては海に突き出した上町台地の北端にあたり、古代には「八十島祭」が行われた場所でした。天皇の女官である典侍(ないしのすけ)が天皇の御衣(おんぞ)を預かり、台地の先端で御衣を納めた筥の蓋を開けて海からの風を御衣に通し、それを持ち帰って天皇が着ると、この国を治める力を得るという呪術的なものでした。
 その後、「熊野詣で」が始まると、京都から船で天満橋あたりの渡辺津(窪津)で上陸し、ここから熊野街道を歩いて熊野を目指します。船路の終着、陸路の出発の地でした。江戸時代には、この地は八軒家浜と名を変え、京・伏見から下って来た三十石船の終着、京へ上る出発の地となります。明治に京都と大阪間に京阪電鉄が開通すると、天満橋駅は大阪側の発着駅になります。その後、淀屋橋駅まで延伸され通過駅になりますが、2008年には京阪中之島線が開通し、天満橋駅は再びその発着駅となりました。
 ここには〈発着の地霊〉がいるといっていいのかわかりませんが、何か不思議なことですね、と鼎談の前に振っておきますね。 

第2部 鼎談 ~高島幸次先生・内田樹先生・〈司会〉釈徹宗先生~

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埋め立てると霊力が下がる

 「『大阪の霊的復興』というお題は、我々もいろいろな場所を歩きましたが、どう考えても大阪の宗教的劣化がいちばんひどいんじゃないか、と実感したところから始まったんです。空襲から短時間で都市化したので、足の裏に霊的なものを感じるプロセスもなく、ごちゃごちゃになってしまっているのではないかと――」。鼎談はまず、釈先生の今回のテーマについて補足説明からはじまりました。「大阪人の信仰の深さは知っていますが、それが町並みに反映されていない気がして」
 それを聞いて、高島先生は「熊野詣でのとき、上町台地を南下している後白河上皇たちは右手にずっと海を見ている。その自然の移り変わりを、しかも八十島祭で支配する権限を受けた大海原が広がっているのをずっと見ていたのに、いまは見事にダメ。地形がどんどん海辺から遠ざかって陸地化したことも原因ではないか」とその理由を探ります。
 高島先生によると、大阪には加島・御幣島・福島・姫島・出来島などの島の付く地名が散見されますが、昔は本当に「島」だったそうなのです。「現代人は地球上の生命はみな海から生まれたという知識を持っているが、古代人が大海原からこの国を治める力を得ると考えたのは面白いですね」と続けます。内田先生も「大阪は、海や水のエネルギーによって賦活された都市だったのでしょう。それなのに海を遠ざけ、川を埋めたのなら、都市としては霊的に死んでしまったことになるのでしょうか」と感想を語られました。

「敬神」と「信心」

 内田先生は高島先生の「農耕がカミを区切った」という考えに賛成し、「ウチとソトをつくっちゃった後のほうが宗教性は弱くなる。そして、制御可能な〈カミ〉と制御不能な〈カミ〉は、この内外の区分けから始まったのではないか」と述べます。
 すると高島先生は、柳田國男のいう「敬神」と「信心」を紹介し、ウチの〈カミ〉を信心する、ヨソの〈カミ〉を敬神する、ようにウチとヨソのカミを互いに認め合うところが、他の宗教と違う大きな特徴であると話します。その例として、江戸時代には大阪の蔵屋敷に、大坂近隣の神様を勧請する藩と、郷里の神様をわざわざ勧請する藩と2種類に分かれたことをあげます。前者が「敬神」で、後者は「信心」というわけです。
 そして、さらに面白い例をあげてくださいます。たとえば、天神祭のときには、大阪天満宮以外の神社の氏子もたくさん来ます。一見すると「神様の浮気」のように見えます。しかし、天神祭の帰りには自分の氏神にお参りする習慣があったそうなのです。すると、その氏神にもそこそこの人出があることになりますからお店がでる。そんな小さい祭りは「もらい祭」と呼ばれた――なにか日本らしい「落としどころ」ですね。

墓参りの人が増えている

 話題はその後、伝統宗教に回帰する現象についての話に移ります。「最近はお祭りが再び盛んになったような面もあるし、住職の感覚からすると、やけに墓参りする人が増えているような気がする」と話すのは釈先生。その流れで、「落語とか講談とか浪曲に復興の兆しがある。それらが心地よいと感じる完成と伝統的な文化や宗教に目を向ける感性はどうも通底しているのではないか」と続けます。
 ちなみに高島先生は、大阪の落語の定席「天満天神繁昌亭」の運営にも携わっていらっしゃいます。内田先生も釈先生も、その高座で鼎談されたことがあり、「サイズがいい」とお気に入りの様子。音楽なども何万人という大きさでライブをするのではなく、1000人とか2000人くらいの小屋のほうがいい、という話から、「宗教教団もそういう方向に進んでいる」とは釈先生の談。
 内田先生は、「巨大な野球場みたいなところ何万人も集めてやるのは、アメリカの伝道師の影響で、ロックコンサートとオーバーラップする。それがどこかの段階で輸入されて、日本の新興宗教が真似しようとした時期があったに違いない」と推測します。
 高島先生は「繁昌亭をつくるきっかけは、当時の上方落語協会桂三枝(いまの文枝)師匠が、どこかで小屋持てないかと天神橋筋商店街で探していたら、大阪天満宮が隣接地をお使いください、と申し出ていまの繁昌亭ができた。実はそこは明治から大正期に「天満八軒」と呼ばれる寄席で賑わった場所なんですよ」と、これまた地霊のような話を披露してくれました。
・・・
いかがでしたでしょうか。大阪という土地は本当に面白い、そう再認識できたご講演・鼎談でした。高島先生、ありがとうございました! さて、いよいよ最終回は、聖地の「スペシャリスト」と言っても過言がないでしょう、植島啓司先生の登場です。ええと、どこまでレポートしてよいものか迷う鼎談でしたが(苦笑)、ぜひそのようなことも含めてぜひ次回もご高覧ください!(管)

聖地巡礼フェス 第1回(茂木健一郎先生)

お正月気分も終わり、寒い日が続いていますね。ご無沙汰しております。管理人です。さて今回からは、2015年9月に凱風館で行なわれた「聖地巡礼フェス」のご報告をお伝えします(といってもだいぶ前ですね)。鼎談なども含めるとかなりの分量になりますので、管理人の感性で重要ポイントをまとめました。ご容赦のほどを。それにしても、今から振り返っても、3人の先生方のお話はドライブがかかってますね~。
ではでは、まずはご高覧のほどを。

第1部 「聖地と起源」 ~茂木健一郎先生 ご講演~

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 今日は、新神戸から凱風館まで80分ほどかけて歩いてきました。その途中にツイッターで御影公会堂を撮影した写真を公開したところ、「そこで私の両親が50年前に結婚式をあげました」という返信がありました。その方にとって御影公会堂は「聖地」でしょう。僕は、聖地とは起源(オリジン)と関係しているのではないか、と思っています。
 たとえばキリスト教だと、マリアの処女懐胎によりキリストが生まれた、ということは、「それなら父親は誰なのだろう」という疑問が生じます。そこから、「イエスの父親は神である」という結論が導きだされる。
 これは結局のところ一種の起源の問題であり、普通の椅子だったとしても、仮に「神の子であるイエスが座った椅子」と信じられるものだったら、それは❝パブリック❞な意味を持ち、聖性を帯びることになるでしょう。
 一方、私は昨年、グーグルの「23andMe」という遺伝子検査のサービスをしたので、時々レポートが送られてきます。そこにはたとえば、私自身に牛乳を分解する酵素であるラクトース酵素があるかないのか、さらには母親のDNAの起源が南のほうにあり、父親のDNAの起源が大陸のほうにあることなどが書かれています。
 つまり、私という人間は、遺伝子レベルでは直接知らないはるか祖先とつながっており、これは❝自分自身❞の「起源」の問題であるとも言えるでしょう。
 また、村上春樹さんの最新エッセイでは、作家になる前に朝から晩まで働いていた喫茶店の話がありますが、そこは村上さんにとっての聖地でしょうし、私自身にだって、母親の出身地の北九州でかき氷を食べた場所とか、はじめてブラックのコーヒーを飲んだ場所とか、思い出すとセンチメンタルになる場所があります。
 そのように、キリスト教の例に出したような、日本でいうと伊勢神宮とか斎場御嶽といった、みんなに認められている❝パブリックな聖地❞と、❝個人的でセンチメンタルなプライベートな聖地❞がある。その関係性を見ていくことが重要なのではないか、と思っています。そして本来の人類にとって聖なるものの起源とは、プライベートなセンチメンタルな領域にしかないとも感じています。ひょっとしたら、文学などの意義はそこにあるのかもしれないと思うのです。


第2部 鼎談  ~茂木健一郎先生・内田樹先生・〈司会〉釈徹宗先生~

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記号にならない前のうごめくもの

 茂木先生の「聖地と起源」をめぐるご講演を受け、鼎談は内田先生の武道とは何か?というお話からはじまりました。
 内田先生は、「世界には輪郭をはっきり持っていない、もうすぐ記号として現前する切迫した❝ざわめき❞がある。訓練を積むとセンサーの感度が上がり、外形的にしっかりと認知できる前にそれを感知できるようになる」とその目的のひとつを説明します。
 茂木先生はそれに同意。内田先生を信頼している理由として、「記号にならない前のうごめく聖性に対する態度」だと述べたうえで、「それを信じるか、信じないか。その感覚を持って何年暮らしたかが、その人の人生にとって重要である」と語ります。
 茂木先生は凱風館の畳をいたく気に入った様子で、いきなり畳の上に寝転がりはじめます。そんな茂木先生を横目に見ながら内田先生は、「学校教育の現場で本当に一番大事なことは、素肌で触れて気持ち場所とか、目に、耳にやさしい場所だとか、そういう空間の中に子どもたちをおいて、皮膚の感度を上げて行くことではないか」と論じます。   f:id:seichi_jyunrei:20150905182710j:plain

プロセスが大事

 続けて内田先生は、「聖地は非常によくプログラミングされた装置」と定義します。熊野古道を例にあげ、「非常に宇宙的な経験ができる。運動の過程で時間が経過していくなかで、心身の変化、生理過程がどう変化するかも含めて考えられている」と話します。
 茂木先生は思い出したように、「千日回峰行をはじめる条件に、お釈迦様の姿を見なくてはいけない、そして確かに見たかどうかを確認する方法があるという。この世の中で本当に大事なことはそういう形でしか起こらない」と続けます。
 それを受けて、釈先生は「見仏三昧」という仏教の言葉をあげて、「もう何十日も不眠不休でやっていたら、それはブッダが見えても不思議じゃないだろうと。でも、それはドラッグを使っても見る可能性だってある。そのようなプロセスをへて得られる体験とドラッグや聖地的な負荷をかけるやり方はどう違うのか」と、茂木先生に質問します。
 茂木先生は「プロセスが大事じゃないかと思っている」と述べ、内田先生は「目標は大事ではない。目標に向かって道を進んでいるイメージを持っているほうが、総合的な心身の能力があがっていく」と説明。そして、その例として釈先生が熊野の神倉神社をあげると、茂木先生も今年のその火祭りに参加していたことが判明します。「その階段がむちゃくちゃで。すさまじい」と、熊野の話で盛り上がりました。

バランスのよい状態とは?

 また、釈先生が京都縁切り寺の話をされ、「露骨なドロドロしたものが集積している」と報告すると、「人の力を奪おうという呪い的なものがもともと聖地の起源だったかもしれない」と茂木先生が提案します。「基本的に聖地はどこで暮らせない場所である」と言葉を継いだ内田先生は、「どうやって適切な距離を取るのかを学ばなければならず、聖的なものに対する感受性は絶対に必要である」と強調します。
 茂木先生は「人格には5つの構成要素があるという研究から、そのひとつであるネガティブ因子が聖地の起源と関連しているのではないか」と仮定し、その例として古来の祟り神や菅原道真などを提示。釈先生は聖地に向き合うことで「自分自身の中の邪悪なものを鎮める効果があるのではないか」と述べます。
 そして内田先生は、「外の環境からの入力に対して感受性があがっている状態と、内側への感受性が上がっている状態、その両方が拮抗しているのが、いちばんバランスがいい状態である。瞑想や坐禅、写経などはその状態をつくりだす」として、「聖地も同様で、僕らが『ザワザワきます』といっているときって、何かが変化した自身の内側を見て、モニタリングしている状態である」と聖地の本質に迫ります。茂木先生はその説に、「それが『心を整える』という言葉なのかもしれない」と同意しました。

・・・
さて、次回は髙島先生の大阪の聖地についてのお話です。ご期待ください! あ、最後になりますが、これらのフェスをまとめた書籍は「いつか」出版されるそうですので、首を長くして待ちましょう!(管)

朝カル対談。全文公開します!(3)

さて、12月初旬という更新の予定はどこへやら……いつのまにか、年の瀬になってしまいました。忘年会やらクリスマスやらで街は騒がしいですが、静かに更新している管理人です。こんなふうなのが、個人的には落ち着きます(笑)。さて、朝カル全文公開もいよいよ第3回目、最後の更新となります! 今回はこれまでの巡礼を振り返り、今後の展望が見えてくる内容となっております! ではでは、じっくりとお楽しみください。

・・・

熊野のおススメ

釈 さて、話を戻しましょう。ナビゲーターの森本さんから見て、これから熊野に行かれるみなさんにおススメなどがありましたら。
森本 交通手段にもよりますが、まず起点になる田辺市から入って中辺路をめぐるという、今回の『聖地巡礼ライジング』のとおりの形が僕はベストだと思います。
内田 あの本のコースが標準的なんでしょうか。
森本 はい。僕の中での熊野ベストプレイスは、大斎原(熊野本宮大社旧社地)、那智の滝、神倉山、三重県の花の窟です。この4カ所が、それこそ誰が行ってもわかる場所だと思います。
釈 大斎原と花の窟はなんとも表現できないようなよい場所でした。
内田 ぼくはまったく予備知識も何もなく、ただふらっと行って「ここはすごい」という役ですが、大斎原のあの中州は素晴らしかったですね。本当に何にもないんですけど。
森本 ずっといたくなる。人もあまりいないですし。
釈 そういえば、内田先生は取材中ずっと熊野=バリ説をとなえていました。特に花の窟で。
内田 いってましたね。
釈 本宮大社の社殿が大斎原から山に移されたのは、長州の陰謀じゃないかとか。
内田 そんなこと、いいましたっけ(笑)。いずれにしても、熊野は海民文化と山人文化というふたつの異なる文化が混交して、そこにすごく豊かな宗教文化が開花している感じがしました。
釈 本当に平地が少ないんです。海からあがるとすぐに断崖絶壁がある。
森本 僕が結婚するとき、うちのかみさんのお兄さんが「熊野には平地がないから、山で転がると海に飛び込むことになるんじゃないか」って冗談をいってましたよ。
釈 その独特な地形が、山人系と海人系を交差させたということはあるでしょう。しかも、それは川を遡ることで生まれた。
内田 熊野は川の文化でもありますよね。川が主要な交通手段であるという。
釈 一度破れた神武天皇は、熊野からもう一度大和に攻め入りました。しかも海には、黒潮も流れています。
内田 いまの行政単位は都道府県ですが、古代の行政区分である「五畿七道」は土地ではなくて、物流を軸に編成されたものですよね。ロジスティクスのラインが「道」なんです。その時代の人たちの空間理解は現代人とはまったくちがっていたと思うんですよね。たとえば新宮の人にとっては、黒潮に乗ってすぐに行くことのできる千葉の房総半島は、地理的に距離としては遠いけれど、身体感覚的にはすぐ近くにあった。大阪や京都より近い場所として認識されていた。実際のそこまでの移動に要する時間や労力といった自分の身体感覚を基準にして空間認知をしていたと思うんです。「身体感覚をベースにした地図」があったら、中世のコスモロジーはかなりわかりやすく表象されると思うんです。誰かがつくってくれないかな。
釈 古代の人たちの空間認知地図ですか。北九州の西側あたりは、近畿圏よりも朝鮮半島のほうがずっと近い地図となるかもしれませんね。

古代人の空間認知

内田 面積についてもいえるかもしれません。空間の広がりとか奥行きって、その土地が持つ「意味」によって変わりますから。
釈 意味のでかさとなれば、大斎原などはかなり広大なフィールドになりそうです。
 最近、北陸新幹線が開通したでしょう。いままで北陸は関西文化圏のようなイメージをもっていたのですが、これからは石川・富山あたりの人は、東京のほうが近い感覚になりそうですね。現代でも「空間認識地図」を作成すると面白いかも
森本 そういう意味では、東京を起点に考えると紀伊半島南部は、交通機関の所要時間で地図をつくったらかなり遠いでしょうね。
釈 福岡とかよりもずっと。
内田 もっと遠いんじゃない。
釈 下手したら鹿児島の先くらいになるかも。
森本 たとえば東京から新宮に行こうとすれば、白浜空港を使って、レンタカーかJRを使うことになります。羽田から白浜空港まで飛行機で1時間、白浜から新宮までが車で約2時間で合計3時間。新幹線なら乗り換えがスムーズにいっても、5~6時間はかかります。
内田 それは名古屋で乗り換えた場合ですか。
森本 はい。いまの感覚ですと、東京―北京間のほうが近いでしょう。
内田 なるほど。
釈 我々も熊野は遠いって感じました。いとうせいこうさんは毎年熊野大学に行かれていますが、「とにかく熊野は遠いんですよ」とおっしゃっていました。
内田 しかし、古代人には京都から大阪を通って熊野に至る道が見えていた。
釈 ほとんど修行のような難行苦行の行路ですけれども。出発する前には、「それほど苦労してもなぜ熊野に何度も行くのか、なぜこもるのか。これが解明すべき謎だ」などと言っていましたが、先ほども申し上げました通り、行ってみたらすぐわかってしまった。
内田 解明の必要がなかった。いいから黙って訪ねなさい、という。
森本 みなさんもおいでいただけたら、間違いなくなんらかの感動をお持ち帰りになられると思いますよ。
釈 地元にお住まいの森本さんでも、熊野の聖地へはときどき行くんですか。
森本 最近はよく神倉神社や花の磐に行きますね。ある用事があって昨日も大斎原行きました。やはりいい場所ですよね。
釈 一遍はそこで熊野権現に出会ってある種の悟りを開きますが、そういう体験が起こっても不思議でも何でもない場所ですよね。
森本 大斎原は中上健次さんが大変お好きだった場所です。中上さんが仕掛けた火をつかった野外劇を行ったのが、本宮大社が初めて外部に貸し出したイベントなんですが、当時はなんと一部にゲートボール場があったんです。
釈 そうらしいですね。でも、あそこには下手なものを建ててほしくはないですよね。変なもの建てるくらいなら、いまのままの何もないほうがいいです。森本さん、今日は本当にありがとうございました。

佐渡と能

釈 我々の聖地巡礼は次回、佐渡に行くことになっています。以前から内田先生が訪問を希望されていた場所のひとつです。佐渡のどこをご覧になりたいんですか。
内田 世阿弥が流された場所ですからね。だから、佐渡には、三十数カ所も能楽堂があります。都道府県単位としては最多なんだそうです。
釈 かつては200以上あったらしいですよ、あんな小さな島に。ちなみに大阪にどれくらいあるんですか。
内田 行ったことのあるのは大阪能楽会館と大槻能楽堂山本能楽堂くらいですね。そう考えると佐渡ってすごい。
釈 びっくりするような数字です。
内田 鎌倉末期から室町時代にかけて発達した能楽は、大地のエネルギーが身体を通して発現する芸能です。とにかく地面に近い。足裏で地面を探りながら進む。だから、足裏から強い波動が送られてくる環境でないと成り立たない。だから、佐渡はきっとすごくバリバリくるはずなんです。
釈 現在の能の中で、佐渡が関係する演目とかあるのですか。
内田 僕は聞いたことないですね。あるかもしれませんが……。
釈 世阿弥自身は佐渡に流されて小謡集『金島書』をつくっていますが、いま歌ったりしないんでしょうか。聞いたことがなくて。
内田 僕もないですね。とにかく佐渡ではお堂を見てみたい。以前、山形の黒川能の家元と会って対談したら、僕の知っている能とまったく違いました。黒川村の人たちは、土着の伝統芸能として何百年も前から全員、能楽をやってきて、年に1回の祭祀のとき、農家や林業といった普通の生活をおくる人が1日何番も能をされる。お会いした家元も中学校の校長先生をされていた方でした。先代にしこまれるのが嫌になり東京に行ったけれど、東京の能を見るうち、自分の家の黒川能を継がなくてはと決心したそうです。だから、能って、その他にも各地に伝播して固有の発達を遂げているはずなんです。舞台の構造も、型も謡の詞章も違う。散逸した古曲だって地方にはいろいろあるんだと思います。
釈 能舞台にも違う形態のものがあるんですか。
内田 黒川能は違うんだそうです。橋懸かりの方向が違うので、普通の能楽堂では左右逆転するので、とても困るとおっしっていました。
釈 そうなると佐渡でも――
内田 固有の能があるんじゃないでしょうか。
釈 それはぜひ観てみたい。
内田 能五流は観世、金剛、金春、喜多、宝生の五流ですが、実際は各地に散らばって、固有の発達を遂げている。
釈 でも、佐渡で暮らしている人って、数だって知れていますでしょう、きっと。
内田 能楽堂だって手づくりでしょう。能を舞いたい、歌いたい、って。
釈 たくさんの能舞台があるので、島の人みんなが、役者になったり、謡曲をやったり、観客になったり……。
内田 そんな感じだったんでしょうね。
釈 私は佐渡日蓮を手元に引き寄せたいんです。佐渡での日蓮の生活を支えた人々は、島を行き来する海民系の集団も少なくなかったでしょう。そんな人々の心性と、日蓮の法華信仰が絡み合う。日蓮にしても親鸞にしても、流刑地の生活がその後の思想構築に大きな影響を与えています。佐渡期の日蓮は、過酷な環境下におかれながら、伝道教化し、論争し、著述を続けました。佐渡に身をおくことで、少しでも何かを感じ取れればと思っているんです。
 そういえば、佐渡良寛にも関係あるようです。良寛は新潟の人ですが、母親が佐渡出身です。そして新潟は親鸞が流罪となった場所であり、浄土真宗がとても盛んです。なにかいろいろクロスしそうな予感があります。
内田 濃いですよね。北一輝佐渡ですよね。
釈 魔王と呼ばれた男ですからね。とにかく佐渡は濃そうです(笑)。
内田 なにかありますね。でもあまり予備知識持たずに行ってみようと思っています。

屈折

釈 昨年は日本のキリシタンをめぐって聖地巡礼しましたが、そちらについて少しお話を聞かせてください。メインは長崎のキリシタンでしたが、大阪や京都のキリシタン関係にも行きました。
内田 本当は五島にも行きたかったんですよね……でも、長崎だけでもすごいものを見たという感じはあります。
釈 どう扱ってよいのか……。うまく言語化できないというような。
内田 われわれの持つ宗教学的な枠組みではまったく消化できないですからね。隠れキリシタンの人たちだけが探り当てた鉱脈、日本文化の古層があるような気がします。
釈 信仰がシンプルに表出していない。屈折している、重層している。まっすぐに行かない。きれいにまっすぐ行く道がないといいますか。
内田 キリスト教は、精緻な体系や教理を持つかなりロジカルな宗教ですけれど、それが温帯モンスーンのねばねばした日本の「感受性」と出会ったとき、独特のアマルガムができた。阪神パークにむかし、ヒョウとライオンを交配させて生まれた「レオポン」っていましたよね。隠れキリシタンはそんな「レオポン」みたいなものじゃないかって思うんです。そんなふうに誕生した新たな種が、その後も迫害されながら生き延びていった。
釈 本場のキリスト教国から隔絶されても、アンダーグラウンドに信仰を続けた。そのたたずまいは「異様」といったら言葉は悪いんですが……。
内田 過酷なまでの弾圧下で何百年間も孤立した状態で信仰を続けるメリットなんて何もない。だから、その信仰は取り出すことができないほど深く内面化・身体化していたと考える他ない。
釈 ナビゲーターをしていただいた下妻さんはクリスチャンではないですが、おっしゃっていましたよね、長崎で生きるわれわれは全員、一度は転んだ人間の子孫なんですって。
内田 いってましたね。
釈 転ばなかった人はみな殺されたわけですから。そう考えると、長崎の聖地はなんと屈折しているんだろうと思います。
内田 そうですね。
釈 そもそも日本人のクリスチャンは屈折している人が多いんです。あ、すいません、今日、クリスチャンの人もおられるでしょうが。私の知り合いだけかもしれないですが(笑)。でも、クリスチャンとしての信仰と、日本宗教文化的な心性と、うまく折り合いがつかない人はおられます。たとえば遠藤周作などはそういう人でした。でも、それも長崎のキリシタンに比べると……。
内田 そんなもんじゃないですよね。
釈 二重三重に屈折しています。
内田 そして原子爆弾まで落とされました。長崎の欧米文化を象徴していた浦上天主堂に原爆を落として粉砕するのって、キリスト教文明のおのれ自身に対する暴力ですよね。
釈 長崎でもキリスト教徒が多かった地域に原爆が落ちているんです。長崎のキリシタンは何度も迫害された挙句、最後のとどめのような形で原爆の被害にあいました。
内田 皆さんあまりご存じないですが、長崎の戦国大名だった大村純忠が、自分の領地を安堵するためにイエズス会に寄進したことがあるんですよ。長崎はかつて日本唯一のイエズス会領であった。キリスト教が極東まで及んだことの、いわばキリスト教の欧米から見ると「普遍性」を表象するのが長崎という場所なんです。そこにアメリカは原子爆弾を落とした。これはぼく、宗教史的にはものすごく象徴的な事件だったと思うんです。
 それにこれはあまり指摘されないことですけれど、この時期は歴史上、とても重要な転轍点だったと思うんです。大村氏が長崎をイエズス会に寄進したように、自領を守るために有力者に名目的に荘園を寄進することは日本では昔から行なわれていたんです。平安時代だったら、貴族や寺社に荘園を寄進して形式的な所有権を譲る代わりに現地の豪族が「代官」として実効支配する。そういうことはふつうに行われていたわけです。大村氏の場合はたまたまその寄進先がイエズス会だったということに過ぎない。だからもし、大村氏のケースがうまくいって、イエズス会や他の修道会に寄進しておくと安定的に領土が保全されるという話が広まったら、西国の大名たちがこぞって領土を寄進したかもしれなかったんです。そうすると豊臣秀吉の天下統一だって危うくなった可能性がある。そういう意味でも、16世紀末は日本の歴史の転轍点だったと思うんです。わずかなきっかけで近世以後の日本の歴史がまったく変わったものになったかもしれない。長崎はそのときの「実現しなかった歴史」との分岐点だったような気がします。
釈 いずれ「聖地巡礼 キリシタン編」が発刊されたら、われわれがキリシタンの屈折ぶりを目の当たりにして、うろたえている状況を楽しんでいただけるんじゃないかと思います(笑)。
内田 そうですね(笑)。
釈 きょうはこんなところで終了にしたいと思います。
内田 みなさまどうもありがとうございました。
・・・
実は、ご存じの方もいるかと思いますが、対談では「次回は佐渡」とお話されていますが、先日の「聖地巡礼フェス」において、植島啓司先生の推薦により次回の訪問先が「対馬」に急遽、変更となっております。このような変更は、実際の巡礼でいろいろ起こっております。寛容な読者のみなさまは、どうぞ温かく見守っていただければと存じます(いずれ訪問する予定ですし)。ではでは、来年からは、今年の夏に行なわれた聖地巡礼フェスの管理人レポートを順次公開していく予定です。こちらもお楽しみに。ではみなさま、佳いお年をお迎えください!(管)

朝カル対談。全文公開します!(2)

さて、いままで更新が長引いていたのがウソのように、きちんと2週間後の更新となりました(笑)。今回は前回の続きで、聖地の世俗性から井上雄彦さんの「ガウディ展」の話まで、縦横無尽に聖地をめぐって話はドライブします。ぜひぜひご堪能ください!

・・・

むきだしの聖地

釈 さて、話を戻すと取材のとき、我々は熊野という土地に引っ張られるように暴走しましたね。
内田 熊野にはすごいパワーがありましたからね。
釈 なぜ我々は熊野にひかれるのかを探りに行ったんですが、全部むき出しで、説明はまったく必要ありませんでした。
内田 隠されていれば「何があるの?」ってなりますけれど。
釈 行けば誰でもわかります。そして、誰でもわかるのをそのまま描写してるのが、この本のユニークなところ(笑)。
内田 なるほどね(笑)。
森本 東京で書店員だった他界した兄にゲラを見せたところ、非常によくできた熊野ガイド本だと言っていました。新しい熊野の切り口が散らばっているね、と。初学者でも熊野の研究者でも、ヒントになることがたくさん盛り込まれている。
釈 先生がいまだに強烈にありありと覚えている場所といえば……
内田 那智の瀧ですよね。そのときの話を認知心理学者の方に話をしたら、「滝を見ていると、岩が浮いて見えるのは当たり前です」って言われました。上から下に降りてくるものをずっと見ていると、下にあるものは浮き上がって見えるんですって。人間の知覚はそういうものですよって言われた。その説明で一応僕も納得はしたんですけれど、あのときの岩がムニューっと浮いた感じは不思議でしたよ。
釈 あのとき、そうおっしゃってましたね。
内田 滝の飛沫が飛んでいって流れるのは、すごくリアルなんです。はっきり鮮明に飛沫が見える。でも、岩が盛り上がるのはリアルじゃないんです。視野の端の方に、アニメみたいな感じで、ムニューって盛り上がってきて、「きました、きました」と(笑)。岩には焦点が合わないんです。
釈 水だって相当ゆっくり落ちている感じですよね。
内田 宙に浮いたような感じがありましたね。
釈 毎日何時間も見ていたら、多分日常生活を送るのが困難になるでしょう。日常の感覚が壊れるかもしれません。
内田 すごく巨大なエネルギーを身近に感じると、いろんなものが壊れますね。身体が細かく砕けて、すごく感度の上がった状態になりましたね。
釈 わたしは青岸渡寺に行ったとき、ちょっとほっとしたんです。仏教は明らかにロゴスティックなので、パトスばかりの熊野から少し離れてバランスを取り戻したような。
内田 熊野にはロゴスがないですからねえ。
釈 熊野はたかが知れた宗教学の知見ではくくれません。私は、宗教はロゴスとパトスとエトスのバランスが大事だと考えていますが、熊野は圧倒的なパトスの地でした。

聖と俗

内田 僕は那智大社に上がっていく途中の階段の両側にある土産物屋に対して最初のうちはずいぶん怒っていたでしょ。こんな霊地になんでこんな下品なものがあるんだって。でも、最後の那智の滝を見たときに、ああいう世俗的なものがまわりにあることには必然性があると思いました。土産物屋は過剰なまでの世俗性によって滝の聖性に対してバランスを取っているんですよね。あれがないと人間は滝に呑み込まれてしまう。
釈 それは熊野行きで発見したことのひとつですね。聖地に対して世俗を対置することで、ある種のバランスがとれて場が落ち着く。
内田 曹洞宗永平寺っていうと、杉木立の中に古刹があるみたいな清浄で質素なイメージがあるじゃないですか。でも、実際に行ってみたらお寺の周りは観光バスやら土産物屋だらけなんです。そのときは「なんだよ、これは」と腹を立てましたけれど、あれもきっと霊地としてパワーがある場所だから、それを相殺するために、巨大な世俗なものが周りにできるんでしょう。「門前町」というのは聖地の霊性を増幅したり、拡大するために形成されたものじゃなくて、霊性を相殺するために形成されたんでしょうね。
釈 聖と俗というのは、単純に二項対立で理解できませんね。たとえば、お祭りなどでもそういう面があります。一方で実にピュアな聖なる儀礼が執行され、その一方でとても俗で猥雑な営みが行われる。
 宗教体系というのは簡単に日常を壊すほどの威力がありますから、世俗から足を離さない態度も重要になってきます。
内田 オウム真理教はすごく俗悪だったじゃないですか。やることは極めて過激な宗教ですが、組織は「国家ごっこ」だった。極めて世俗的な組織を設計して、教義をアニメで説いたり……。サティアンという建物のチープさも異常でしたよね。なんであんな先鋭的な宗教団体がこれほど俗悪な表象を選択するのか、不思議だったんです。
釈 とてもアニメ的というか、マンガ的というか。
内田 もしかしてあれも何かを「相殺」するためだったかもしれない。
釈 オウムは出家という形態を標榜していました。自分たちの勝手な理屈で出家生活を構築していたのですが、その閉鎖性が暴走を加速させました。「閉鎖的な空間の中で生じるチープな俗」みたいな面があったのかもしれません。

聖なるものを見た顔

内田 僕らは宗教的な荘厳や清浄といったある種の「定型」を知っていますよね。ある種の宗教的な権威付けしようと思ったら、とりあえずは神社仏閣に倣うというような。
釈 そうですね。
内田 でも、そうしないもののほうが、むしろ危険な感じがする。「門前町」的な附属物が俗悪であればあるほど、逆にそれが取り囲んでいる宗教的中心には強い霊力があるかのように僕たちは感じてしまうから。
釈 ある種の宗教的な定型は、安全装置のようなものであるということですか。定型に沿わない異形性が持つ邪悪な香りとか?
内田 なんかがあるにちがいない、と。
釈 オウム真理教の不気味さは、そういうところに表出しているのですね。
内田 プラスチックのアニメみたいな「ご本尊」って、むしろその方が僕には恐ろしい。それを笑うのはむしろ間違っているんじゃないですか。
釈 そういうことですか。ヘンなものを笑うというのは、むしろ宗教的感性が劣化している証左であると。
 そういえば以前、新しい教団の建物ってどうしてあんなに趣味が悪いのかって、話題にしたことがありましたよね。
内田 ありましたね! 黄金の屋根とか、変な尖塔とか。
釈 伝統的な様式を避けて宗教性を持たせようとすると、かえって変な形になってしまうのではとも思います。
内田 昨日、井上雄彦さんの「ガウディ展×井上雄彦展」を、公式ナビゲーターで僕の自宅兼道場の凱風館を設計した光嶋祐介くんに案内してもらったんです。そのときにガウディのサグラダファミリアを見ながら、僕は「はっきり言って、趣味悪いな」と思うわけです。でも、若い頃のガウディの建築作品はとっても端正なんですよ。精緻できちんとしていて。でも、それががらっと変わって、その集大成としてサグラダファミリアがある。当時のバルセロナ市民の感覚からしても、「これはちょっと……」って気持ちがあったと思いますよ。でも、聖地の霊的力を表象する装置としては、この方が優れているということが市民たちにもすぐにわかった。あまりにも巨大な霊的な力はそれを取り囲むために「ありものは全部使って、上に積み上げる」ような建造物を要求するということってないでしょうか。チェルノブイリの「石棺」も、見方によっては宗教的建造物に見えますからね。サグラダファミリアが2026年に完成したら、ノートルダム大聖堂ケルン大聖堂と比較にならないくらい強烈な、霊的なセンターになりそうな気がします。
釈 わたしもこのガウディ展について少し話してもよろしいですか。ちょっと話題が変わってしまうのですが……。すみません、どうしても言いたくて。
「ガウディ×井上雄彦展」は、少年時代からのガウディの生涯と作品が展示され、その中に井上雄彦さんの漫画が混入するというユニークな企画になっています。そして、ガウディの生涯の展示が終わって、その後で井上さんによる10枚ほどの漫画が並んでいます。この漫画の時代設定は「現代」です。ガウディが現代のバルセロナに現れる。旅行中の井上雄彦さんとすれ違いざまに肩があたったりして(笑)。
 ガウディの親友だったロレンソが、「サグラダファミリアを見に行こう」といいます。実際にはガウディはサグラダファミリアの完成を見ずに死んでいます。だから完成した姿を見ようと誘うのです。ところがガウディは、「やめよう、怖い」という。なぜなら、「素晴らしいものつくりたいと思っていたのに、自分の考えていたものとまったく違う俗悪なものになったらと思うと、怖くて見られない」からです。
 でもロレンソは、「君には見る責任がある」といって連れて行きます。ふたりはサグラダファミリアの前に立つ。二人の立ち姿と、サグラダファミリアの影とが重なる。ガウディは、顔を上げる……。そして、ラストのひとコマ。最後は、ガウディの横顔です。
 この顔が、素晴らしい。あきらかに「聖なるものを見た人の顔」なんです。
内田 そうですね。
釈 私、すごいと思って。ナビゲーターの光嶋さんに、「あれはまさに聖なるものを見た顔ですね」といったら、「そうですか。でも、あのラストのひとコマが、意味わからない、という人もいるんですよ」と言うじゃないですか。ふざけんな! バカじゃないか! どこ見とんねん! と、激しく憤ったんですよ。
 しかもですね、そのラストの横顔が、某誌のガウディ展の特集号で、表紙に使われているんですよ。もう、許せん!!※
 あの横顔は、物語をたどった末に行き着かないと。推理小説の表紙に犯人の名前書いてあるようなものですよ。あの顔だけ見ても、ダメなんですから。
内田 あの展覧会に宗教的な意味を考えている人ってあまりいないみたいですね。
釈 ええっ、そうなんですか! ううむ、わからん……。誰が見ても、聖性を発揮していると思っていたのに。
 ほんとうに、あの顔がよく描けたものだと思って、そのことを井上先生に言ったら、「ガウディのデスマスクをモデルにして描きました」とのことでした。

※その後、井上雄彦先生に同じような話をしたら、やはり展覧会の初期にはあの顔を雑誌などに出すことはお断りしていたそうです。しかし、最初の開催から何か月も経過したので、もういいのではとなったらしいです。いや、あかんやろ、何年経っても、と私は思いましたが……。
「そういえば、あの雑誌はとても売れたと聞きましたよ」とおっしゃっていました。

・・・

このシーンでは、釈先生の怒り(&愛着)が伝わってくる内容でしたね。といいつつ、私も雑誌の表紙で見ちゃいました(釈先生、すいません)。では、次回は記念対談の最終回です。来月初旬の公開予定です。お楽しみに!(管)

 

朝カル対談。全文公開します!(1)

さて、久しぶりの更新になります。聖地巡礼峠茶屋管理人です。

お待たせした分、ビッグなプレゼントです。以前からお話させていただきましたが、内田・釈両先生と朝日カルチャーセンター中之島教室さんのご厚意により、今年の3月26日に同教室で行なわれた『聖地巡礼ライジング 出版記念講座』における、両先生の対談テキストの全文をこれから3回に分けて掲載させていただくことになりました。今回はその1回目となります。

私もつい先日、内田先生からいただいたばかりなのですが、面白いですよ~。途中から、熊野巡礼の際にお世話になった森本祐司さんも登場します。
ではでは、ご高覧ください!

・・・

聖地巡礼」朝カル対談(1)

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先生という「機能」

釈 例によりまして、世間話から始めたいと思います。内田先生、何か最近面白かったことや気になったことはありますか。
内田 昨日、神戸女学院大学の現役の1年生の学生がうちに来て、「弟子入りしたい」っていってきたんです。
釈 合気道の弟子入りですか。
内田 いえ、「学問的なこと」について弟子入りをしたい、と。
釈 内田先生個人の弟子になりたいということですね。そういう弟子って、受け入れるんですか。
内田 もちろんです。僕はだれから「先生」といわれても、「うん」って答えているので(笑)。「公認の弟子」とか「非公認の弟子」という区別はないんです。教師は基本的には一種の「機能」で、仮説的な存在でしょう。自分のブレイクスルーのために、弟子は教師という機能を勝手に利用するわけですから。
釈 直接会っていない、本を読んで私淑するような「自称弟子」でもOKであると。
内田 はい。でも、「先生」っていわれたくない人っていますよね。「僕は君に先生といわれる立場じゃない」って。
釈 でも内田先生は昔から、先生と呼ばれるのが好きなんですよね。
内田 ずっと先生と呼ばれていましたからね。それに先生は弟子に対して責任を取る必要はない、と考えていますから。
釈 その弟子入り志願者は現役の1年生ですから、先生の教員時代は知らないんでしょうね。
内田 先日、1年生対象の文体論の授業を3回だけやったんですよね。毎回提出してもらう短いレポートの中に際立って面白いことを書いてくる子がいたので、「君の書くものは面白い」っていったら、弟子入りしたい、と。
釈 ははあ。内田先生に「面白い」などといわれたら、うれしいでしょうね。

新しい連載

 釈 では、わたしの方の近況を。
 4月から毎日新聞で月1回、「伝統的な宗教であるが、日本ではまだまだなじみがない外来の教団を取り上げる連載」を始めました。今月は、神戸にあるジャイナ教のお寺に行きます。ジャイナ教は、仏教と同じくらいの歴史を持っていて、無所有や不殺生などの思想が特徴です。虫を踏みつぶしたりするのを避けるために出家者(サードゥー)は乗り物に乗れないので、あまり広範囲に拡大しません。
内田 では、どうやって日本に来たんでしょうか。
釈 神戸の人たちはサードゥーではなく、一般の信者ですから。移住してきて、もう三世代目・四世代目になっているようです。
 ちなみに第1回は茨木のモスクに行きました。茨木のモスクは歴史があって地域にも密着しています。
内田 なるほど。いい企画ですね。
釈 タイトルは「異教の隣人たち」となりました。私たちの身の回りには、日本では異質性の高い信仰形態を守って暮らしている人がいる。そこに目を向けようというわけです。そして、その人たちが日本で暮らすことの困難さについて聞きたい。そして、その困難さを引き受けてもなお信仰を続ける喜びについて聞きたくて。
 たとえばイスラム教徒やユダヤ教徒は土葬ですが、日本では禁止されていますので、そのような状況にどう対処しているのか。ちなみに関西では茨木のモスクが中心となって、和歌山県・橋本にムスリム用墓地の広い土地を買ったようで、当分は大丈夫そうです。でも、イスラム教育をしてくれる場所がないのも悩みの種だとか。
内田 ユダヤ教には、世界各地に学校を建てて教師を派遣する、伝統的な宗教教育を施すためのコミュニティがありますよね。レヴィナス先生もそれに関連した校長先生を長くされていました。イスラムにもあるんですかね、そのような施設が。
釈 イスラム文化圏だと、学校で子どもたちにイスラムの教育をするのですが、日本だとそういうことはありません。また、日本ではモスクを建設しようとすると、地元が反対するようです。近隣とうまくやっておられる茨木ではないそうですが、モスクへの投石もあるようですし。なんといっても今はIS(イスラム国)の影響が大きい。
内田 出口が見えませんね。
釈 今日もイラクで大規模な空爆があったようです。
内田 直前にはイエメンでクーデターもありましたよね。とにかく、現在のイスラムの国家システムは、どこも国民国家としては破綻しつつある。そもそも中近東や中東の国民国家は20世紀はじめに帝国主義列強が適当に地図に線を引いてつくったものですから。でもそんなふうにして人為的に引いた国境線は結局100年かかっても「受肉」しなかった。そもそも国境線が直線であるということ自体が異常なんです。もともと言語も宗教も生活文化も同質だった人たちを、外交官たちが地図に線を引いていくつかの国民国家に分割したというところに無理があるんです。
釈 ISには、移民2世・3世たちが参加している。たとえば生まれも育ちもフランスで、母国語もフランスという人がISに流れ込んでいる。
内田 ヨーロッパは、移民の統合にはどこも成功していませんから。
釈 民族がひしめき合うヨーロッパでもうまくいかないほど、移民問題は難しいのです。
内田 ドイツもイギリスもフランスもみんな移民政策はちがうのに、すべて失敗している。それは移民政策に「正解はない」ということでしょう。
釈 現在の状況は、ここ数十年にわたってこじれにこじれた結果です。そう簡単にはよい方向へと向かいません。

イスラムの国で暮らしたい

 内田 アメリカではいま、帰還兵の精神的な崩壊が問題になっています。このあいだ『帰還兵はなぜ自殺するのか』という本の推薦文を頼まれて読みました。第2次世界大戦やベトナム戦争にはじまり、最近はイラクやアフガンに米軍は派兵していますが、それらの戦争からの帰還兵がいま毎年240人以上も自殺している。読んで驚いたのは、戦場に行くと人間は、残虐行為に対する耐性がすぐにつくらしい。だから、どんなことでも平気でできるようになる。妊婦を殺したり、子どもの頭を踏み砕いたり、死体を抱いてピースサインをして写真を撮ったりということが戦場では平気でできる。みんな異常に興奮しているから。でも、帰還して帰って普通の市民生活に入った後に、そのときの経験がフラッシュバックしてくる。戦場での自分と、市民生活を営んでいる自分との間に落差がありすぎて、人格が統合できなくなるんです。どちらが「ほんとうの自分」かわからなくなる。戦場の自分と市民としての自分を統合しようとすると、結果的には家庭生活の中でも平気で暴力をふるったり、銃を持ち出したりするということにある。だから帰還兵の精神的な問題というのは、ほとんどが家庭内での妻子に対する暴力と銃による犯罪や自殺といったかたちで現れる。戦闘に参加したのがほんの数か月間だったとしても、その経験はその後の何十年と続く人生に影響を与え続ける。国防省はこれまで帰還兵の問題についてきちんとした統計取っていませんでしたが、帰還兵による犯罪や自殺があまりに増えて社会問題になってきたので、陸軍が取り組み始めた。ちなみにこのような問題は海軍や空軍ではあまり起こらないそうです。地上戦経験者に集中的に起きる。
釈 地上部隊は、空軍や海軍よりも戦闘がずっと生身でリアルだからでしょう。
内田 戦艦からミサイル撃ったり、飛行機から爆弾を落とすことはあまり心理的な負荷にならないということなんでしょうね。でも、地上部隊では目の前にいる人を殺さなければならない。それが心に大きな傷を残す。
釈 イスラムの人とお会いすると、みなさんできればイスラム圏で暮らしたいと思っているように感じます。日本などの非イスラム圏で暮らすのは大変ですから……だから、イスラム圏の国々が安定していれば、非イスラム圏に住む理由もないんです。でも、治安や政治や経済の状況が悪くて、仕方なく不自由しながら非イスラム圏に住んでいるという人も少なくない。つまり、遠回りなようですが、イスラム圏の暮らしをよくする草の根的なサポートが結局、問題解決への道筋でしょう。
内田 たしかに軍事ではなく、医療や教育など、イスラム圏の民生の安定にお金を使うのが一番いいと思いますけどね。

熊野を振り返る

 釈 さて今回、『聖地巡礼ライジング』の発売記念のトークショーですので、少し熊野巡礼を振り返ってみたいと思います。実際に熊野でナビゲーターをしてくださった森本さんが本日お越しになっておられますので、お迎えしたいと思います。
内田 取材のときはお世話になりました。
森本 こちらこそ。
釈 そうそう最近、お燈祭りの様子をテレビ番組見たんですよ。
内田 新宮にある神倉山の磐座からダダダダッと降りる祭りですね。
釈 そうです。あの斜面を体感しているものですから、「あんなスピードで降りていくなんて、とても信じられない」と思いながら番組を見ていました。
内田 テレビカメラが入って撮ったんですか、神事なのに。
森本 過去に何度かNHKは撮っていますが、最近あまり許可していないはずですが。
釈 神事の部分は映っていなかったように思います。しかし、せまいスペースにびっしりと大勢の上がり子が、たいまつ持ったままあの急な石段をものすごいスピードで駆け降りる様子の一部が放送されていました。
森本 最初の先頭集団は、わりと速く降りますが、私のようなおじさんは、ぼちぼちついて行くって感じです。
釈 足元には何を履いているんですか。
森本 わらじです。
釈 そういえば、メルギブソンの『アポカリプト』っていう、ものすごく走る映画がありましたよね。ジャングルの中をものすごいスピードで走る、身体性をひたすら発揮する映画です。
内田 素晴らしい映画でしたね。歩きにくい石や木の根や枝の中をものすごいスピードで走るわけですから、「ここは行ける」っていう、そういう「道のクオリア」が見えるんだと思います。前にラガーマン平尾剛さんから伺いましたが、タッチライン沿いにラインぎりぎりのところを走っていると、足元のラインを見ていなくても、タッチラインがそこにあることがわかるらしいです。空気の壁が押し戻してくれるんですって。「あかん、こっちきたらあかん」って(笑)。それと同じで、お燈祭りのとき急坂を降りる上り子も、全速力で降りるときに踏んでいいところと悪いところが、はっきりと模様として見えているはずです。
釈 ある種の興奮状態、トランス状態で走っているということですね。
内田 いちいち足下を見ていたら絶対に降りられませんよ。
釈 そうですよね。
内田 あんな急な階段を走って降りるなんて、僕はイヤですけどね(笑)。でも、走れる人は自分がどこに足を置くべきかが直感的にわかるんだと思う。それを足裏で確認しながら進むような感覚だと思います。たしか祭りの日は2000人ぐらい上がるんでしたよね。
森本 そうですね。
内田 すごいですよね。僕らは20人くらいで結構にぎやかだったのに、その100倍か。
森本 最初に火をもらうまでは、白い装束で狭い場所で待機します。そして暗闇の中でご神体のある岩に無数の白装束の人間がはりついている――わたしの友人が「まるでクー・クラックス・クランの集会みたいだ」というくらい、かなり異様な雰囲気です。
 ちなみに、神倉山の石段は源頼朝の寄進といわれ、急峻でごつごつしています。なんでこんなふうに石段をつくったのかずっと不思議だったんですが、両先生方が神倉山は「巨大な瞑想装置で、簡単にトランスに入るための仕掛けじゃないか」と指摘されて、ストンと落ちました。

複雑な身体運用

 内田 同時多発的に複雑な身体運用が要求されるとき、瞑想状態、トランス状態に入らなければ対応できないんです。脳が運動筋に指令を出す中枢的な身体操作では、環境がどんどん変化する状況には対応できない。だから、脳による中枢的な制御を外して、軽いトランス状態に入る。そうすると、生物としてのプリミティブな部分が動き出して、環境に対して、現場処理ができるようになる。いちいち脳に情報を上げて、その判断を待つということをしないで、身体各部がその場で最適解を選択する。
 たとえば、足元が不安定な状態で立ち続ける場合、全身の使える限りの身体部位を使って情報処理する必要がある。神倉山のような複雑な石段を降りるときは、短い時間で環境が変化するから、それに即応しようとしたら、トランス状態に入って、脳による中枢的統御を外すしかない。
森本 そういえば、昔は「しごき」のようなものがありましたよね。自意識が枯れるまで身体を酷使させて初めて、開かれたものが見えるという。
内田 関連はしていますよね、あまり適切な方法だとは思いませんが、身体能力の発現を妨害しているのが自我や知性や主体性といったものだということは確かなんです。だから「しごき」は、特に自我を心理的に集中的に攻撃することで、脳による中枢的な身体制御を不可能にしてしまうんです。自我が弱まることで、身体が自由を回復する。そうやってブレイクスルーを経験させる。これは身体能力を短期的に向上させるためには有効ですが相当に熟練した人がコントロールしないと、精神にとっても身体にとっても危険ですね。長期的にはもっと穏やかな方法の方が効果的だと僕は思います。
 たとえば、高校日本一を何度も経験しているチームの選手が大学の運動部や社会人チームに入ったときにあまり活躍できないケースがよくあるんです。それは、あまりにも特殊な環境下で運動能力が最大化するように心身をつくりこみ過ぎちゃった結果なんだと思います。ほんとうはどんな場合でもコンスタントに能力が発揮できるという汎用性がなくなる。
釈 瞑想や宗教体系も似たようなところがあります。1960年代にカルト集団的な宗教団体が、幻聴体験を装置やシステムで行うメソッドを発達させました。神秘体験というか非日常状態はドラッグ使うと簡単に起こりますし、見えるもの聞こえるものなどは瞑想で起こる神秘体験とあまり変わらない。多分、脳波を測っても数字的には区別できないと思います。ただ根本的に違うのは、汎用性の有無と、短期で行うことによって起こる弊害です。

 

・・・
さて、いかがでしたでしょうか。タッチラインの空気の壁――管理人は、日本代表のサモア戦の得点シーンを思い出しました。そして、9月に行なわれた「聖地巡礼フェス」でも話題にのぼった神倉神社。「ものすごい」場所ですので、行かれたことのない方はぜひ訪ねてみてくださいね!

では、第2回は11月中旬更新予定です。ご期待ください!(管)

 

投稿企画「私だけの聖地」の受賞者発表!

またまたご無沙汰しております。管理人です。
さて、先日はツイッターで巡礼部長さんからも状況報告などがあったかと思いますが、9月5~6日の2日間にわたり、「聖地巡礼フェス」が内田先生の道場兼自宅の凱風館にて開催されました。茂木健一郎先生、髙島幸次先生、植島啓司先生をお招きしたスリリングなご講演に加え、内田・釈両先生を交えた鼎談で、会場は大いに盛り上がりました。「聖地巡礼」をめぐり、今後の方向性などいろいろ見えてきた大変有意義なフェスになったかと思います。ご協力いただきました皆様には、心より御礼申し上げます。ありがとうございました!
この内容のレポートは後日、このブログでご報告させていただきますね。

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さて、このフェスの開催にあわせて、内田・釈両先生には、みなさまからご投稿いただいた「私だけの聖地」の各賞の選考もしていただきました。いよいよ結果を発表させていただきます!

まずは、このブログの名前を冠した賞から。じゃかじゃかじゃかじゃか………

 

聖地巡礼 峠茶屋賞】(賞品:菅笠)

NO.2 港町神戸の諏訪神社と中華義荘。

(青山ゆみこさん)
http://seichi-jyunrei.hatenablog.com/entry/2014/10/22/110226

 

神戸の海をめぐる、とても印象深い文章でしたね。両先生から絶賛の声があがりました。巡礼部員で両先生ともご存知なので、「まあ、プロなんですけどね…」の声もありましたが…(苦笑)。さて、発表、続きます! じゃかじゃかじゃかじゃか………

 

釈徹宗賞】(賞品:ズタ袋)

No.10  いまに続くモノ、No.17 聖地でおにぎり

(Amano_Jokeさん)

http://seichi-jyunrei.hatenablog.com/entry/2015/01/23/161400
http://seichi-jyunrei.hatenablog.com/entry/2015/03/17/105241

 

「文章の感じがいい」とは釈先生の談です。2回、ご投稿いただきました。賞品の「ズタ袋」は先生方から「一番実用性のある賞品」との評価です。

さて、いよいよ最後です。じゃかじゃかじゃかじゃか………

 

内田樹賞】(賞品:杖)

No.13  膜の中の2分間

下妻みどりさん)
http://seichi-jyunrei.hatenablog.com/entry/2015/02/12/231452

 

内田先生が「いいですね~」と連発されていらっしゃいました。お住まいの坂の多い長崎で、賞品の両先生サイン入りの杖をご使用くださいね。

上記受賞者のみなさま、おめでとうございます!  受賞された作品以外でも、すばらしい作品がたくさんあります。ぜひ、この機会にもう一度、お読みいただけましたら幸いです。個人的には、最近はいつもこの企画のことが頭の中にあったので、終わってしまうとさみしい気もしておりますが……これからも更新、続けていきますよ!

これからはまず、朝日カルチャー中之島教室で今春行なわれた、内田・釈先生による「聖地巡礼ライジング 刊行記念トークショー」を対談内容の全文を、その後は、先日開催の「聖地巡礼フェス」のレポートなどをアップしていく予定です。「聖地」をめぐる、誰もが読みたい内田・釈先生の対談などを読めるのはここだけ!(変な宣伝文句になっておりますが…苦笑)。
引き続き、「聖地巡礼峠茶屋」、ご愛読いただけましたら幸いです!(管)