聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

No.12 私と聖地

 さて、今年3月末が締切のエッセイ投稿企画「私だけの聖地」、続々とご投稿いただいております。今回は「私と聖地」と題して、島根にお住まいのhatihatibunbunさんにご投稿いただきました。「聖地はもっと広くて総合的ではないか」と指摘されています。ぜひお読みください。まだまだみなさまのご応募お待ちしております。「応募要項」をお読みの上、どしどしご応募ください!
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私と聖地(hatihatibunbun)

 私が聖地巡りのようなことを始めたのは、20代も半ばの頃でした。
 ある日のこと、小学校、中学校、高等学校が一緒で(とても田舎ですから)、そして学部は違えども大学まで同じだった同級生と、どこかへ行こうという話しになったのが事の発端で、それからの3年ばかりの間に、奈良(明日香村を歩き回る)、京都(京都から比叡山を越えて琵琶湖へ下る)、鳥取(民宿に連泊しての海水浴三昧)、奈良・和歌山(バスで十津川を下り熊野本宮、そして那智の滝へ)、奈良(吉野詣で、そして知る人ぞ知る、天河神社へ)と半年に一度ぐらいのペースで旅行をして、ついにはディスカウントの航空チケットを片手にサンフランシスコまで出掛けて行ったところで、その同級生との旅は一段落したのですが、それらの物見遊山的な旅の中で何度も意識することになったのは「聖地を巡る」ということだったのです。
 いつも旅先ではたくさん歩きます。同級生と行ったサンフランシスコでも、市内の安ホテルに2泊した後には、そこからサンフランシスコ湾の対岸にある大学の街バークレーに移ってその街のホテルに3泊して、サンフランシスコ市内やバークレーの大学構内などを思いつくままに歩いたり、市内からサンフランシスコ湾の地下をもぐって対岸に出た後に、いくつかの郊外の町へと枝分かれする路線の電車に乗ってそれぞれの終点まで行っては、見知らぬ街を歩き回ったりしました。
 歩いているといろいろな場所に行き当たり、そして、いろいろなことに出会います。
 たとえば、これもサンフランシスコでのことです。市内からゴールデンゲートブリッジに向かって8kmぐらい歩いたころから霧雨が時折降り始めました。最初は橋を渡って向こう岸まで行こうと思っていたのですが、天気の崩れが心配だったので渡ることはやめて、橋の根元を通り過ぎて丘陵に続く遊歩道に入って少し歩いたところから振り返えると、太平洋とサンフランシスコ湾とをつなぐ海峡(橋の長さほどなので1,000mばかりの海峡なのです)の対岸の岬へと真っ直ぐに伸びる橋をわずかに斜め上から見下ろすことができて、その橋の上では雨上がりの靄の中を行き交う車が、ライトを点けて走っていたのです。こちらに向かう車の列はフォグライトの白色の灯りで、対岸へと向かう反対の車線にはテールライトの赤色の灯りが連なっていて、クリスマスが終わったばかりのときだったからでもないのでしょうが、私はなぜかクリスマスツリーみたいだと思ったのでした。
 さて、聖地の話でした。
 この稿を書くにあたって、自分にとって聖地とは何か、なんていうことを考えました。
 聖地とは、一般的には神社仏閣など特定の場所のことを言うのでしょうが、自分にとっての聖地とはもっと広くて、もっと総合的なものなのではないかと、こうやって思い出話を書き連ねながら考えたりするのです。
 だから、私にとってはひたすらに歩き回っていたあのサンフランシスコという土地自体が聖地であったということにもなるのです。
 気ままに歩いているといろいろと面白いことが起こります。
 去年の暮れには、女房と2人で名古屋から琵琶湖沿岸を経て大阪・神戸へと至る3泊4日の旅行に出かけました。
 岐阜県養老町の養老の滝と、その滝の近くにある養老天命反転地という公園施設に行きたいという私の思いと、NHK大河ドラマの熱心な視聴者でもある女房の、一度は彦根城に行ってみたいという、それぞれの長年の思いから実現した旅行でした。
 琵琶湖は実に大きかったのです。3日目に訪れた早朝の彦根城からはその琵琶湖の対岸に雪を纏った比良山地が連なっているのが見えました。そしてその反対側には同じく白化粧をした伊吹山が聳えていて、織田信長羽柴秀吉や(この旅行の琵琶湖湖畔の宿で最終回を観た大河ドラマの主人公である)黒田官兵衛などがこの地で活躍した戦国時代の歴史と共に、琵琶湖を含めたその土地の総体が目の前に立ち現れて来るようでもあったのですが、そんな感慨に耽った彦根城ではまた、徳川幕府大老にまでなった井伊直弼が、彦根藩主の十四男として生まれ育ち、大人になってもなかなか世に出る機会もないままにここで生活していたという事を知りました。
 そして、その年末の旅行から年が明けた、つい先日のことです。
 夜になって女房がテレビで、新たに始まったばかりの大河ドラマの主人公でもある吉田松陰(実際は妹の方が主人公なんですね)についての番組を観ていたので私も観ました。その番組で、井伊直弼らによる安政の大獄によって吉田松陰が処刑されたことを知って、女房と、あの彦根城井伊直弼だなあ、などと話したり、今度は吉田松陰松下村塾がある萩へ行こうという話しをしたりしました。
 その翌日には、ネットで吉田松陰についていろいろ調べてみたのですが、あるサイトを読んでいてちょっと驚くことがありました。
安政の大獄を断行した井伊直弼が眠る豪徳寺(中略)皮肉にも松陰が眠る松陰神社井伊直弼が眠る豪徳寺は、近くにある」(某サイトより)
 私は大学時代の4年間を東京は世田谷区世田谷の下宿で過ごしました。豪徳寺松陰神社も下宿から歩いて5分ぐらいのところにありました。豪徳寺には散歩がてらに立ち寄ったことが何回かあったし、松陰神社にも友人(小・中・高・大学が一緒だったあの彼です)と一緒に行った記憶があるのです。地図で確認してみると、やはり私の下宿は豪徳寺松陰神社とのほぼ中ほどのところにありました。
 そんな体験をしながら、そしてこの原稿を書きながら、あの大学生活を過ごした世田谷さえも私にとっては実に聖地であったのだと、あれから30年もの年月を経た今、懐かしく考えることになったのです。
 ・・・そして、エピローグ的なこと・・・
 今から1年ほど前のことです。
 私と同じ島根県内の知人に、私と同じく、現代における私塾とは何かなんてことなどを考えている(勝手に私がそう推測しているのですが)男がいます。
 ある日、その彼が仕事で上京して、これから世田谷区内をあることで歩くのだと、ツイッターというものに書き込んでいました。
 見ればそのコースは私が暮らしていた下宿のすぐ近くの世田谷区役所辺りを通過するものでした。(区役所も目的地の1つだったようです)
 それから、数日ほど後のことだったと思います。
 職場の隣の席のふた周りも歳が離れた後輩と話をしていて、彼のお母さんの生まれ育った実家が、これもまた私の大学時代の下宿のすぐ近くにあることが分かったのです。
「サミットってスーパーマーケットがあってね、いつもそこで買い物をしていたよ」
「あ、サミット知ってます」
「世田谷区役所の食堂とか図書館とかよく行ってたよ」
「区役所の庭で、いとことキャッチボールしたりしました」
「ああ、あのタイル張りの庭だね」
「あ、そうです。そうです」
 子供の頃は関東に住んでいて、何度も母親の実家に遊びに行ったという彼とは世田谷で過ごした時代は違うのですが(でも、若き日の彼のお母さんと私はサミット辺りですれ違っていたのかもしれません)、ここから700kmも離れた遠い土地の思い出話を2人でしていることがとても不思議だったのです。(しかも数日前にはそこを知人が歩いたばかりだったのですから尚更に)
 そうそう、不思議といえば、これも去年の秋のころの話なんですが・・・
 いえいえ、私だけの聖地というこの投稿のテーマからどんどん逸脱して行きそうなので、この辺りで筆を置く事にいたします。
 
Profile:
hatihatibunbun:島根の山間地に生息する50代の男性です。内田樹先生の凱風館の活動に関心を持っています。(3年ほど前には、旅先からの帰り道で途中下車して、凱風館の外観だけでもこの目にと立ち寄ったら、道場で子供たちのお稽古を見学させていただくという幸運を手に入れました!
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「700kmも離れた遠い土地の思い出話」というのは、結構あることはないでしょうか。知らないはずの人が知っている、そういうとき、なぜかすごく親しくなれるような気がします。それももしかしたら「土地の霊性」に何か絡んでくるのかもなんて、管理人は無理につなげちゃったりもしますが(笑)。hatihatibunbunさん、ご投稿ありがとうございました! そうそう、内田先生・釈先生の「聖地巡礼シリーズ」の新刊やイベント情報なども管理人のもとに入ってきております。「私だけの聖地」とともに順次アップさせていただきますね。ではでは~。(管)