聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

朝カル対談。全文公開します!(1)

さて、久しぶりの更新になります。聖地巡礼峠茶屋管理人です。

お待たせした分、ビッグなプレゼントです。以前からお話させていただきましたが、内田・釈両先生と朝日カルチャーセンター中之島教室さんのご厚意により、今年の3月26日に同教室で行なわれた『聖地巡礼ライジング 出版記念講座』における、両先生の対談テキストの全文をこれから3回に分けて掲載させていただくことになりました。今回はその1回目となります。

私もつい先日、内田先生からいただいたばかりなのですが、面白いですよ~。途中から、熊野巡礼の際にお世話になった森本祐司さんも登場します。
ではでは、ご高覧ください!

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聖地巡礼」朝カル対談(1)

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先生という「機能」

釈 例によりまして、世間話から始めたいと思います。内田先生、何か最近面白かったことや気になったことはありますか。
内田 昨日、神戸女学院大学の現役の1年生の学生がうちに来て、「弟子入りしたい」っていってきたんです。
釈 合気道の弟子入りですか。
内田 いえ、「学問的なこと」について弟子入りをしたい、と。
釈 内田先生個人の弟子になりたいということですね。そういう弟子って、受け入れるんですか。
内田 もちろんです。僕はだれから「先生」といわれても、「うん」って答えているので(笑)。「公認の弟子」とか「非公認の弟子」という区別はないんです。教師は基本的には一種の「機能」で、仮説的な存在でしょう。自分のブレイクスルーのために、弟子は教師という機能を勝手に利用するわけですから。
釈 直接会っていない、本を読んで私淑するような「自称弟子」でもOKであると。
内田 はい。でも、「先生」っていわれたくない人っていますよね。「僕は君に先生といわれる立場じゃない」って。
釈 でも内田先生は昔から、先生と呼ばれるのが好きなんですよね。
内田 ずっと先生と呼ばれていましたからね。それに先生は弟子に対して責任を取る必要はない、と考えていますから。
釈 その弟子入り志願者は現役の1年生ですから、先生の教員時代は知らないんでしょうね。
内田 先日、1年生対象の文体論の授業を3回だけやったんですよね。毎回提出してもらう短いレポートの中に際立って面白いことを書いてくる子がいたので、「君の書くものは面白い」っていったら、弟子入りしたい、と。
釈 ははあ。内田先生に「面白い」などといわれたら、うれしいでしょうね。

新しい連載

 釈 では、わたしの方の近況を。
 4月から毎日新聞で月1回、「伝統的な宗教であるが、日本ではまだまだなじみがない外来の教団を取り上げる連載」を始めました。今月は、神戸にあるジャイナ教のお寺に行きます。ジャイナ教は、仏教と同じくらいの歴史を持っていて、無所有や不殺生などの思想が特徴です。虫を踏みつぶしたりするのを避けるために出家者(サードゥー)は乗り物に乗れないので、あまり広範囲に拡大しません。
内田 では、どうやって日本に来たんでしょうか。
釈 神戸の人たちはサードゥーではなく、一般の信者ですから。移住してきて、もう三世代目・四世代目になっているようです。
 ちなみに第1回は茨木のモスクに行きました。茨木のモスクは歴史があって地域にも密着しています。
内田 なるほど。いい企画ですね。
釈 タイトルは「異教の隣人たち」となりました。私たちの身の回りには、日本では異質性の高い信仰形態を守って暮らしている人がいる。そこに目を向けようというわけです。そして、その人たちが日本で暮らすことの困難さについて聞きたい。そして、その困難さを引き受けてもなお信仰を続ける喜びについて聞きたくて。
 たとえばイスラム教徒やユダヤ教徒は土葬ですが、日本では禁止されていますので、そのような状況にどう対処しているのか。ちなみに関西では茨木のモスクが中心となって、和歌山県・橋本にムスリム用墓地の広い土地を買ったようで、当分は大丈夫そうです。でも、イスラム教育をしてくれる場所がないのも悩みの種だとか。
内田 ユダヤ教には、世界各地に学校を建てて教師を派遣する、伝統的な宗教教育を施すためのコミュニティがありますよね。レヴィナス先生もそれに関連した校長先生を長くされていました。イスラムにもあるんですかね、そのような施設が。
釈 イスラム文化圏だと、学校で子どもたちにイスラムの教育をするのですが、日本だとそういうことはありません。また、日本ではモスクを建設しようとすると、地元が反対するようです。近隣とうまくやっておられる茨木ではないそうですが、モスクへの投石もあるようですし。なんといっても今はIS(イスラム国)の影響が大きい。
内田 出口が見えませんね。
釈 今日もイラクで大規模な空爆があったようです。
内田 直前にはイエメンでクーデターもありましたよね。とにかく、現在のイスラムの国家システムは、どこも国民国家としては破綻しつつある。そもそも中近東や中東の国民国家は20世紀はじめに帝国主義列強が適当に地図に線を引いてつくったものですから。でもそんなふうにして人為的に引いた国境線は結局100年かかっても「受肉」しなかった。そもそも国境線が直線であるということ自体が異常なんです。もともと言語も宗教も生活文化も同質だった人たちを、外交官たちが地図に線を引いていくつかの国民国家に分割したというところに無理があるんです。
釈 ISには、移民2世・3世たちが参加している。たとえば生まれも育ちもフランスで、母国語もフランスという人がISに流れ込んでいる。
内田 ヨーロッパは、移民の統合にはどこも成功していませんから。
釈 民族がひしめき合うヨーロッパでもうまくいかないほど、移民問題は難しいのです。
内田 ドイツもイギリスもフランスもみんな移民政策はちがうのに、すべて失敗している。それは移民政策に「正解はない」ということでしょう。
釈 現在の状況は、ここ数十年にわたってこじれにこじれた結果です。そう簡単にはよい方向へと向かいません。

イスラムの国で暮らしたい

 内田 アメリカではいま、帰還兵の精神的な崩壊が問題になっています。このあいだ『帰還兵はなぜ自殺するのか』という本の推薦文を頼まれて読みました。第2次世界大戦やベトナム戦争にはじまり、最近はイラクやアフガンに米軍は派兵していますが、それらの戦争からの帰還兵がいま毎年240人以上も自殺している。読んで驚いたのは、戦場に行くと人間は、残虐行為に対する耐性がすぐにつくらしい。だから、どんなことでも平気でできるようになる。妊婦を殺したり、子どもの頭を踏み砕いたり、死体を抱いてピースサインをして写真を撮ったりということが戦場では平気でできる。みんな異常に興奮しているから。でも、帰還して帰って普通の市民生活に入った後に、そのときの経験がフラッシュバックしてくる。戦場での自分と、市民生活を営んでいる自分との間に落差がありすぎて、人格が統合できなくなるんです。どちらが「ほんとうの自分」かわからなくなる。戦場の自分と市民としての自分を統合しようとすると、結果的には家庭生活の中でも平気で暴力をふるったり、銃を持ち出したりするということにある。だから帰還兵の精神的な問題というのは、ほとんどが家庭内での妻子に対する暴力と銃による犯罪や自殺といったかたちで現れる。戦闘に参加したのがほんの数か月間だったとしても、その経験はその後の何十年と続く人生に影響を与え続ける。国防省はこれまで帰還兵の問題についてきちんとした統計取っていませんでしたが、帰還兵による犯罪や自殺があまりに増えて社会問題になってきたので、陸軍が取り組み始めた。ちなみにこのような問題は海軍や空軍ではあまり起こらないそうです。地上戦経験者に集中的に起きる。
釈 地上部隊は、空軍や海軍よりも戦闘がずっと生身でリアルだからでしょう。
内田 戦艦からミサイル撃ったり、飛行機から爆弾を落とすことはあまり心理的な負荷にならないということなんでしょうね。でも、地上部隊では目の前にいる人を殺さなければならない。それが心に大きな傷を残す。
釈 イスラムの人とお会いすると、みなさんできればイスラム圏で暮らしたいと思っているように感じます。日本などの非イスラム圏で暮らすのは大変ですから……だから、イスラム圏の国々が安定していれば、非イスラム圏に住む理由もないんです。でも、治安や政治や経済の状況が悪くて、仕方なく不自由しながら非イスラム圏に住んでいるという人も少なくない。つまり、遠回りなようですが、イスラム圏の暮らしをよくする草の根的なサポートが結局、問題解決への道筋でしょう。
内田 たしかに軍事ではなく、医療や教育など、イスラム圏の民生の安定にお金を使うのが一番いいと思いますけどね。

熊野を振り返る

 釈 さて今回、『聖地巡礼ライジング』の発売記念のトークショーですので、少し熊野巡礼を振り返ってみたいと思います。実際に熊野でナビゲーターをしてくださった森本さんが本日お越しになっておられますので、お迎えしたいと思います。
内田 取材のときはお世話になりました。
森本 こちらこそ。
釈 そうそう最近、お燈祭りの様子をテレビ番組見たんですよ。
内田 新宮にある神倉山の磐座からダダダダッと降りる祭りですね。
釈 そうです。あの斜面を体感しているものですから、「あんなスピードで降りていくなんて、とても信じられない」と思いながら番組を見ていました。
内田 テレビカメラが入って撮ったんですか、神事なのに。
森本 過去に何度かNHKは撮っていますが、最近あまり許可していないはずですが。
釈 神事の部分は映っていなかったように思います。しかし、せまいスペースにびっしりと大勢の上がり子が、たいまつ持ったままあの急な石段をものすごいスピードで駆け降りる様子の一部が放送されていました。
森本 最初の先頭集団は、わりと速く降りますが、私のようなおじさんは、ぼちぼちついて行くって感じです。
釈 足元には何を履いているんですか。
森本 わらじです。
釈 そういえば、メルギブソンの『アポカリプト』っていう、ものすごく走る映画がありましたよね。ジャングルの中をものすごいスピードで走る、身体性をひたすら発揮する映画です。
内田 素晴らしい映画でしたね。歩きにくい石や木の根や枝の中をものすごいスピードで走るわけですから、「ここは行ける」っていう、そういう「道のクオリア」が見えるんだと思います。前にラガーマン平尾剛さんから伺いましたが、タッチライン沿いにラインぎりぎりのところを走っていると、足元のラインを見ていなくても、タッチラインがそこにあることがわかるらしいです。空気の壁が押し戻してくれるんですって。「あかん、こっちきたらあかん」って(笑)。それと同じで、お燈祭りのとき急坂を降りる上り子も、全速力で降りるときに踏んでいいところと悪いところが、はっきりと模様として見えているはずです。
釈 ある種の興奮状態、トランス状態で走っているということですね。
内田 いちいち足下を見ていたら絶対に降りられませんよ。
釈 そうですよね。
内田 あんな急な階段を走って降りるなんて、僕はイヤですけどね(笑)。でも、走れる人は自分がどこに足を置くべきかが直感的にわかるんだと思う。それを足裏で確認しながら進むような感覚だと思います。たしか祭りの日は2000人ぐらい上がるんでしたよね。
森本 そうですね。
内田 すごいですよね。僕らは20人くらいで結構にぎやかだったのに、その100倍か。
森本 最初に火をもらうまでは、白い装束で狭い場所で待機します。そして暗闇の中でご神体のある岩に無数の白装束の人間がはりついている――わたしの友人が「まるでクー・クラックス・クランの集会みたいだ」というくらい、かなり異様な雰囲気です。
 ちなみに、神倉山の石段は源頼朝の寄進といわれ、急峻でごつごつしています。なんでこんなふうに石段をつくったのかずっと不思議だったんですが、両先生方が神倉山は「巨大な瞑想装置で、簡単にトランスに入るための仕掛けじゃないか」と指摘されて、ストンと落ちました。

複雑な身体運用

 内田 同時多発的に複雑な身体運用が要求されるとき、瞑想状態、トランス状態に入らなければ対応できないんです。脳が運動筋に指令を出す中枢的な身体操作では、環境がどんどん変化する状況には対応できない。だから、脳による中枢的な制御を外して、軽いトランス状態に入る。そうすると、生物としてのプリミティブな部分が動き出して、環境に対して、現場処理ができるようになる。いちいち脳に情報を上げて、その判断を待つということをしないで、身体各部がその場で最適解を選択する。
 たとえば、足元が不安定な状態で立ち続ける場合、全身の使える限りの身体部位を使って情報処理する必要がある。神倉山のような複雑な石段を降りるときは、短い時間で環境が変化するから、それに即応しようとしたら、トランス状態に入って、脳による中枢的統御を外すしかない。
森本 そういえば、昔は「しごき」のようなものがありましたよね。自意識が枯れるまで身体を酷使させて初めて、開かれたものが見えるという。
内田 関連はしていますよね、あまり適切な方法だとは思いませんが、身体能力の発現を妨害しているのが自我や知性や主体性といったものだということは確かなんです。だから「しごき」は、特に自我を心理的に集中的に攻撃することで、脳による中枢的な身体制御を不可能にしてしまうんです。自我が弱まることで、身体が自由を回復する。そうやってブレイクスルーを経験させる。これは身体能力を短期的に向上させるためには有効ですが相当に熟練した人がコントロールしないと、精神にとっても身体にとっても危険ですね。長期的にはもっと穏やかな方法の方が効果的だと僕は思います。
 たとえば、高校日本一を何度も経験しているチームの選手が大学の運動部や社会人チームに入ったときにあまり活躍できないケースがよくあるんです。それは、あまりにも特殊な環境下で運動能力が最大化するように心身をつくりこみ過ぎちゃった結果なんだと思います。ほんとうはどんな場合でもコンスタントに能力が発揮できるという汎用性がなくなる。
釈 瞑想や宗教体系も似たようなところがあります。1960年代にカルト集団的な宗教団体が、幻聴体験を装置やシステムで行うメソッドを発達させました。神秘体験というか非日常状態はドラッグ使うと簡単に起こりますし、見えるもの聞こえるものなどは瞑想で起こる神秘体験とあまり変わらない。多分、脳波を測っても数字的には区別できないと思います。ただ根本的に違うのは、汎用性の有無と、短期で行うことによって起こる弊害です。

 

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さて、いかがでしたでしょうか。タッチラインの空気の壁――管理人は、日本代表のサモア戦の得点シーンを思い出しました。そして、9月に行なわれた「聖地巡礼フェス」でも話題にのぼった神倉神社。「ものすごい」場所ですので、行かれたことのない方はぜひ訪ねてみてくださいね!

では、第2回は11月中旬更新予定です。ご期待ください!(管)