聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

朝カル対談。全文公開します!(2)

さて、いままで更新が長引いていたのがウソのように、きちんと2週間後の更新となりました(笑)。今回は前回の続きで、聖地の世俗性から井上雄彦さんの「ガウディ展」の話まで、縦横無尽に聖地をめぐって話はドライブします。ぜひぜひご堪能ください!

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むきだしの聖地

釈 さて、話を戻すと取材のとき、我々は熊野という土地に引っ張られるように暴走しましたね。
内田 熊野にはすごいパワーがありましたからね。
釈 なぜ我々は熊野にひかれるのかを探りに行ったんですが、全部むき出しで、説明はまったく必要ありませんでした。
内田 隠されていれば「何があるの?」ってなりますけれど。
釈 行けば誰でもわかります。そして、誰でもわかるのをそのまま描写してるのが、この本のユニークなところ(笑)。
内田 なるほどね(笑)。
森本 東京で書店員だった他界した兄にゲラを見せたところ、非常によくできた熊野ガイド本だと言っていました。新しい熊野の切り口が散らばっているね、と。初学者でも熊野の研究者でも、ヒントになることがたくさん盛り込まれている。
釈 先生がいまだに強烈にありありと覚えている場所といえば……
内田 那智の瀧ですよね。そのときの話を認知心理学者の方に話をしたら、「滝を見ていると、岩が浮いて見えるのは当たり前です」って言われました。上から下に降りてくるものをずっと見ていると、下にあるものは浮き上がって見えるんですって。人間の知覚はそういうものですよって言われた。その説明で一応僕も納得はしたんですけれど、あのときの岩がムニューっと浮いた感じは不思議でしたよ。
釈 あのとき、そうおっしゃってましたね。
内田 滝の飛沫が飛んでいって流れるのは、すごくリアルなんです。はっきり鮮明に飛沫が見える。でも、岩が盛り上がるのはリアルじゃないんです。視野の端の方に、アニメみたいな感じで、ムニューって盛り上がってきて、「きました、きました」と(笑)。岩には焦点が合わないんです。
釈 水だって相当ゆっくり落ちている感じですよね。
内田 宙に浮いたような感じがありましたね。
釈 毎日何時間も見ていたら、多分日常生活を送るのが困難になるでしょう。日常の感覚が壊れるかもしれません。
内田 すごく巨大なエネルギーを身近に感じると、いろんなものが壊れますね。身体が細かく砕けて、すごく感度の上がった状態になりましたね。
釈 わたしは青岸渡寺に行ったとき、ちょっとほっとしたんです。仏教は明らかにロゴスティックなので、パトスばかりの熊野から少し離れてバランスを取り戻したような。
内田 熊野にはロゴスがないですからねえ。
釈 熊野はたかが知れた宗教学の知見ではくくれません。私は、宗教はロゴスとパトスとエトスのバランスが大事だと考えていますが、熊野は圧倒的なパトスの地でした。

聖と俗

内田 僕は那智大社に上がっていく途中の階段の両側にある土産物屋に対して最初のうちはずいぶん怒っていたでしょ。こんな霊地になんでこんな下品なものがあるんだって。でも、最後の那智の滝を見たときに、ああいう世俗的なものがまわりにあることには必然性があると思いました。土産物屋は過剰なまでの世俗性によって滝の聖性に対してバランスを取っているんですよね。あれがないと人間は滝に呑み込まれてしまう。
釈 それは熊野行きで発見したことのひとつですね。聖地に対して世俗を対置することで、ある種のバランスがとれて場が落ち着く。
内田 曹洞宗永平寺っていうと、杉木立の中に古刹があるみたいな清浄で質素なイメージがあるじゃないですか。でも、実際に行ってみたらお寺の周りは観光バスやら土産物屋だらけなんです。そのときは「なんだよ、これは」と腹を立てましたけれど、あれもきっと霊地としてパワーがある場所だから、それを相殺するために、巨大な世俗なものが周りにできるんでしょう。「門前町」というのは聖地の霊性を増幅したり、拡大するために形成されたものじゃなくて、霊性を相殺するために形成されたんでしょうね。
釈 聖と俗というのは、単純に二項対立で理解できませんね。たとえば、お祭りなどでもそういう面があります。一方で実にピュアな聖なる儀礼が執行され、その一方でとても俗で猥雑な営みが行われる。
 宗教体系というのは簡単に日常を壊すほどの威力がありますから、世俗から足を離さない態度も重要になってきます。
内田 オウム真理教はすごく俗悪だったじゃないですか。やることは極めて過激な宗教ですが、組織は「国家ごっこ」だった。極めて世俗的な組織を設計して、教義をアニメで説いたり……。サティアンという建物のチープさも異常でしたよね。なんであんな先鋭的な宗教団体がこれほど俗悪な表象を選択するのか、不思議だったんです。
釈 とてもアニメ的というか、マンガ的というか。
内田 もしかしてあれも何かを「相殺」するためだったかもしれない。
釈 オウムは出家という形態を標榜していました。自分たちの勝手な理屈で出家生活を構築していたのですが、その閉鎖性が暴走を加速させました。「閉鎖的な空間の中で生じるチープな俗」みたいな面があったのかもしれません。

聖なるものを見た顔

内田 僕らは宗教的な荘厳や清浄といったある種の「定型」を知っていますよね。ある種の宗教的な権威付けしようと思ったら、とりあえずは神社仏閣に倣うというような。
釈 そうですね。
内田 でも、そうしないもののほうが、むしろ危険な感じがする。「門前町」的な附属物が俗悪であればあるほど、逆にそれが取り囲んでいる宗教的中心には強い霊力があるかのように僕たちは感じてしまうから。
釈 ある種の宗教的な定型は、安全装置のようなものであるということですか。定型に沿わない異形性が持つ邪悪な香りとか?
内田 なんかがあるにちがいない、と。
釈 オウム真理教の不気味さは、そういうところに表出しているのですね。
内田 プラスチックのアニメみたいな「ご本尊」って、むしろその方が僕には恐ろしい。それを笑うのはむしろ間違っているんじゃないですか。
釈 そういうことですか。ヘンなものを笑うというのは、むしろ宗教的感性が劣化している証左であると。
 そういえば以前、新しい教団の建物ってどうしてあんなに趣味が悪いのかって、話題にしたことがありましたよね。
内田 ありましたね! 黄金の屋根とか、変な尖塔とか。
釈 伝統的な様式を避けて宗教性を持たせようとすると、かえって変な形になってしまうのではとも思います。
内田 昨日、井上雄彦さんの「ガウディ展×井上雄彦展」を、公式ナビゲーターで僕の自宅兼道場の凱風館を設計した光嶋祐介くんに案内してもらったんです。そのときにガウディのサグラダファミリアを見ながら、僕は「はっきり言って、趣味悪いな」と思うわけです。でも、若い頃のガウディの建築作品はとっても端正なんですよ。精緻できちんとしていて。でも、それががらっと変わって、その集大成としてサグラダファミリアがある。当時のバルセロナ市民の感覚からしても、「これはちょっと……」って気持ちがあったと思いますよ。でも、聖地の霊的力を表象する装置としては、この方が優れているということが市民たちにもすぐにわかった。あまりにも巨大な霊的な力はそれを取り囲むために「ありものは全部使って、上に積み上げる」ような建造物を要求するということってないでしょうか。チェルノブイリの「石棺」も、見方によっては宗教的建造物に見えますからね。サグラダファミリアが2026年に完成したら、ノートルダム大聖堂ケルン大聖堂と比較にならないくらい強烈な、霊的なセンターになりそうな気がします。
釈 わたしもこのガウディ展について少し話してもよろしいですか。ちょっと話題が変わってしまうのですが……。すみません、どうしても言いたくて。
「ガウディ×井上雄彦展」は、少年時代からのガウディの生涯と作品が展示され、その中に井上雄彦さんの漫画が混入するというユニークな企画になっています。そして、ガウディの生涯の展示が終わって、その後で井上さんによる10枚ほどの漫画が並んでいます。この漫画の時代設定は「現代」です。ガウディが現代のバルセロナに現れる。旅行中の井上雄彦さんとすれ違いざまに肩があたったりして(笑)。
 ガウディの親友だったロレンソが、「サグラダファミリアを見に行こう」といいます。実際にはガウディはサグラダファミリアの完成を見ずに死んでいます。だから完成した姿を見ようと誘うのです。ところがガウディは、「やめよう、怖い」という。なぜなら、「素晴らしいものつくりたいと思っていたのに、自分の考えていたものとまったく違う俗悪なものになったらと思うと、怖くて見られない」からです。
 でもロレンソは、「君には見る責任がある」といって連れて行きます。ふたりはサグラダファミリアの前に立つ。二人の立ち姿と、サグラダファミリアの影とが重なる。ガウディは、顔を上げる……。そして、ラストのひとコマ。最後は、ガウディの横顔です。
 この顔が、素晴らしい。あきらかに「聖なるものを見た人の顔」なんです。
内田 そうですね。
釈 私、すごいと思って。ナビゲーターの光嶋さんに、「あれはまさに聖なるものを見た顔ですね」といったら、「そうですか。でも、あのラストのひとコマが、意味わからない、という人もいるんですよ」と言うじゃないですか。ふざけんな! バカじゃないか! どこ見とんねん! と、激しく憤ったんですよ。
 しかもですね、そのラストの横顔が、某誌のガウディ展の特集号で、表紙に使われているんですよ。もう、許せん!!※
 あの横顔は、物語をたどった末に行き着かないと。推理小説の表紙に犯人の名前書いてあるようなものですよ。あの顔だけ見ても、ダメなんですから。
内田 あの展覧会に宗教的な意味を考えている人ってあまりいないみたいですね。
釈 ええっ、そうなんですか! ううむ、わからん……。誰が見ても、聖性を発揮していると思っていたのに。
 ほんとうに、あの顔がよく描けたものだと思って、そのことを井上先生に言ったら、「ガウディのデスマスクをモデルにして描きました」とのことでした。

※その後、井上雄彦先生に同じような話をしたら、やはり展覧会の初期にはあの顔を雑誌などに出すことはお断りしていたそうです。しかし、最初の開催から何か月も経過したので、もういいのではとなったらしいです。いや、あかんやろ、何年経っても、と私は思いましたが……。
「そういえば、あの雑誌はとても売れたと聞きましたよ」とおっしゃっていました。

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このシーンでは、釈先生の怒り(&愛着)が伝わってくる内容でしたね。といいつつ、私も雑誌の表紙で見ちゃいました(釈先生、すいません)。では、次回は記念対談の最終回です。来月初旬の公開予定です。お楽しみに!(管)