聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

管理人のてくてくロケハン日記(2)

第2回目 京都ロケハン編

~巡礼の意味は道中にあり!?~

 

○行けなかった今宮神社

 第2回目の聖地巡礼の舞台は京都。本番に備えて、いよいよ新大阪からバスに乗っての移動になります。ロケハンでは「レンタカー」での移動です。

 京都では、三大葬送地のうちのふたつ、鳥辺野、蓮台野をめぐることになりました。

 蓮台野は京都の北西部、船岡山を中心とした一帯を指します。今回は、船岡山にある建勲神社のほか、千本ゑんま堂、ALS(筋委縮性側索硬化症)という難病に罹られている甲谷匡賛さんが暮らすスペースALS-D(こちらは場所のみ確認)をめぐりました。

 実はロケハンでは「今宮神社」にも訪れています。釈先生から、最初に「千本ゑんま堂がよいのではないか」という指示があったのですが、後日、「今宮神社についても検討してほしい」という依頼があったからです。

今宮神社は船岡山から北に歩いて10分ほどの距離にある、「玉の輿」という言葉が生まれたとされる説がある神社です。広い境内はゆったりとしていて、天気もよくてポカポカしていて気持ちいい。

ただ、流れている空気は、たしかにちょっと「ずれている」ような感覚もある。お稲荷様もどこか不可思議な魅力がある。たしかに、ここも「聖地」の匂いを感じる……。

 

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  しかし、それ以上に強烈な「引力」もありました。それは「あぶり餅」。

今宮神社の東門前にあり、それぞれ1000年、400年という歴史を持っています。きな粉をまぶして炭火で焼き、白味噌をからめた親指くらいの大きさで、竹串に刺さって出されます。これが美味! 足の疲れも畳のイグサの感触が癒してくれます。午前中に歩き通しになる本番にもぴったりだ!

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というわけで、「よし、ここにしよう!」と相棒といったんは決めたのですが、一方で、ここでゆっくりしてしまうと、午後に行く鳥辺野で時間が苦しくなるのは必須。結果的には、相棒と相談して、泣く泣く「あぶり餅」(というか、今宮神社)はあきらめることになりました。

もしかしたら、旅行会社でパック旅行を企画される方も同じだと思うのですが、この判断って、むずかしいですよね。やはり、見てほしい、感じてほしい場所はたくさんあるのに、時間がどうしても制約されてしまう。

 結局、選んだ千本ゑんま堂は、両先生はあまりお好きではなかったかも……という印象を受けました。なかなか僕らの宗教性のアンテナは鋭敏になりません……。

さらに、前回のような都市部の巡礼ではないので(住宅地も多い場所だったので)、いちばん苦労したのは、「お昼ごはんの場所」。

巡礼部からは毎回、20人近くの方が参加されています。すると、なかなか徒歩で歩く行程のなかに、全員一か所に収容できる都合のいい(かつおいしそうな)お店はありません。ロケハンでは予定を無視して船岡山周辺を歩き回り、千本ゑんま堂近くの商店街でそれぞれ分かれて食事をとっていただくことにしました。

 

○寄り道の効用

 そのあと、レンタカーで移動し、道に迷いながらも六波羅蜜寺に到着。小野篁が冥界を行く際に取った井戸を遠巻きに見ました。

ただ、これはロケハンの話で、本編ではその前に六波羅蜜寺で、空也上人像をご覧になっています。実はこれ、ロケハンでは訪れていない、完全なる「寄り道」(笑)。

 たまたま鳥辺野を歩いていると見えてきて、以前から釈先生が絶賛していた空也上人があると聞き、「せっかくだから見ましょう」と入っていく内田先生と釈先生、ついていく、巡礼部の方々……。常に時間と格闘し、ペース配分に気を使っている我々としても……ううう、もちろん入ります。どうなっても知らないぞう!と思いながら(笑)。

ただ、おかげで本編には空也上人像をめぐる面白いお話を収載することができました。そのあたりはさすが両先生!ですね。

 そういえば、本来の巡礼というのは、そういう寄り道による「副産物」を得る機会であったのかもしれません。

 とうのも、実は私ごとで恐縮ですが、随筆家の白洲正子さんが大好きで、大学時代に「西国三十三か所観音巡礼」をしたことがあります。その中盤あたりでしょうか、バスの運転手さんに伺った話を覚えています。それはこういうことでした。

 

「巡礼っていうのは、お金がかかる。だから、このあたりの村もみんなで金を出し合って、巡礼者を送り出していた。もちろん信心もあるんだろうけど、巡礼の途上で得た知識や技術を得て、それを村に持ち帰ってくれることも期待していたんだよね」

 

 なるほど、でもこれって結局、「寄り道」に期待しているってことですよね。純粋に信心を求めて寺から寺を歩いているだけでは、けっして見つけることはできない。でもそれが、お金を出す側としては、本質的な目的にもなっている。

何を持って帰ってくるかわからないけれど、なにかを期待して、お金を出す。

そういえば、白洲さんもこうおっしゃっていました。

 

「巡礼の本質は道中にある」

 

たしかに、「聖地」をめぐったあと、両先生から発せられるスリリングが言説は、バスだったり、歩いていたり、まさにそんな「道中」のなかから生まれます。

それは、『聖地巡礼ビギニング』のなかで、内田先生がおっしゃっている以下の言葉にもつながる気がします。

 

「人間というのは移動しながらおしゃべりしていると、『突拍子』もないことを思いつくという傾向ある」(『聖地巡礼ビギニング』p.8

 

「突拍子」のないことは、きっと、思考の寄り道から生まれてくるものでしょう。そういうところが、このシリーズがほかの書籍と違った稀有な特徴を持っている、と言えるかもしれません。

ただ、両先生……寄り道は「ほどほど」にしていただければ幸いです(笑)。

 そしてその後は、鳥辺野に行き清水寺を裏から眺めました。

釈先生のおすすめのこのルートは、内田先生ほか、巡礼部のみなさんの琴線に触れるだろうことを確信しながら。

 

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