聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

No.6 なぜかサルデーニャ。(2)

 「私が訪れた聖地」の第6回目は、巡礼部副部長の青木さんのサルデーニャ発掘エッセイ(と勝手に銘打ってしまいました)の第2弾。日本での遺跡発掘などはイメージもしやすいのですが、イタリアの発掘ってどんなふうに行なわれているんでしょうか? 
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なぜかサルデーニャ。2(青木真兵)

 2014年夏、ぼくはイタリアのサルデーニャ島にあるフェニキア人の遺跡モンテ・シライを発掘する機会に恵まれました。発掘調査を主催するのはサッサリ大学。サッサリはサルデーニャ島第2の都市です。1960年から継続する由緒ある調査は大学のカリキュラムに組み込まれているようで、計35名ほどのメンバーの大部分はサッサリ大の学生。他にはスペイン各地から来た学生が8、9人ほどいましたが、日本はおろか東洋からの参加者はぼく一人という状況でした。
 発掘した遺跡モンテ・シライは小高い山の上にあり、私たちが泊まっていた宿舎はサンタンティオコという町にありました。この町はサルデーニャ島の南西部に浮かぶ、さらに小さな島の東岸に位置しています。数多くの船が停泊し、小さなカフェやレストランが並ぶ普通のヨーロッパのリゾート地です。そもそもフェニキア人がつくった都市スルキスが中世以降発展して出来た町、それがこのサンタンティオコでした。
 発掘調査地である山の上のモンテ・シライと、宿泊地である海岸の町サンタンティオコ。この両者は海を挟んで20kmほど離れていますが、非常に重要な関係にあります。モンテ・シライは、スルキスに住んでいたフェニキア人が内陸へのルートを監視するために建造した砦だったのです。この砦は古代ローマ帝国下において衰退し放棄されたため、遺跡として良い状態を保つことになります。しかし海洋民族フェニキア人の遺跡は海岸沿いにあるのが通常。そのような意味でも、モンテ・シライは特別な意味を持った遺跡です。
 思い起こせば十年ちょっと前、大学に入学したぼくはまず考古学研究会の扉を叩きました。先輩方はみんな濃いキャラで、同級生は癖のある人材が揃っていました。研究室は大学のキャンパス外にあり、少し隔離されているような建物もカビ臭く、薄暗い。これぞ大学! イメージ通り! 歪みきったぼくの「キャンパス・ライフ・イメージ」を補完するのに十分な現状に満足し、ぼくは日々土器片を洗い続けました。
 しかし夏に茨城で行われた発掘合宿を経て、ぼくの中に変化が訪れました。このままで良いのだろうか。何が「このまま」で、自分は何を「良い」と思っているのか、そんなことはもちろん分かりません。分からないのだけれど、自分が変化を欲していることは分かる。今思えば「現実逃避」であり「中二病」の典型的症状であることは明白なのですが、当時は「自由」に憧れる大学生。一年生の終わりには研究会を円満退会させていただき、「これで自由になったのだ!」とサンボマスターよろしくぼくはギターをかき鳴らしたのでした(もちろん頭の中で)。
 何が言いたいかというと、ぼくは「集団生活に向かない人間」なのであります。そのような人間は原理的に発掘調査に向かないのであるまいか。なぜなら発掘調査は一人で実施することはできず、しかも例えばモンテ・シライ遺跡のように1960年代から継続しても未だ終わることはないほど、長期間にわたる。ぼくのように集団生活に不適合かつ堪え性のない人間を、イタリアのみなさんは受け入れてくれるのだろうか。それが問題だったのです。
 しかしそれは杞憂でした。今回の発掘調査では、20〜25歳のサッサリ大の学生たちとともに大学の宿舎に寝泊まりし、共同部屋には12、3人が一緒に寝起きしていました。その多くはぼくよりも年下だったのですが、特に仲良くしてもらったのは少し年上のアンジェロさん。彼は高校で数学を教えている教師でもあります。優しいクラッシャー・バンバン・ビガロ(もしくはビッグバン・ベイダー)のような外見で、とても良く面倒をみていただきました。
 彼は大のアニメ好き。イタリアでは老若男女誰もが知っている「釣りキチ三平」のイタリア版テーマ曲の冒頭「♪サンペ〜イ、ペスカト〜レ、サンペ〜イ」を「♪シンペ〜イ」というぼくの名前に変えて唄うお約束のものから、ケンシロウが秘孔を突く際の叫び声「あたたたたた! あたああああ!」を出会い頭に全力でやってくれたことも相まって、ぼくの思い悩みはいつのまにか吹っ飛んでいたのです。

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 ここで発掘調査のスケジュールをご紹介したいと思います。調査の開始は朝8時。宿舎のあるサンタンティオコからモンテ・シライまで車で約30分かかることも考慮に入れると、朝6時半には起床する必要があります。朝ご飯をしっかり食べる日本人と異なり、イタリアの朝ご飯は簡素です。ぼくもカフェラテとクッキーをほおばり、大学が所有する小さなバンに乗り込みます。発掘自体は間に20分ほどの休憩を一度挟んで、12時半までほぼ集中。13時には遺跡から完全撤収しなくてはなりません。ネバー残業。
 再び30分かけて宿舎に戻った我々は、自分たちでパンに具材を挟んで昼食を食べます。ハムやツナなどの肉類、トマト、レタスなどの野菜類、チーズも欠かせません。特にハムとチーズは数種類が用意され、各自好みに合ったパニーノをつくります。個人的にはツナとトマトを挟んだものが好きで、ツナは缶詰なので日本のものと変わりませんが、トマトは小ぶりで水分が少ない。トマトの味が凝縮しているような気がして、とても美味しかったのを思い出します。
 昼食の後は、16時30分まで自由時間。みんなはすぐにお昼寝タイムとなりますが、ぼくは毎日アンジェロさんに連れられて海岸のカフェにお茶をしに行っておりました。サンタンティオコはリゾート地なので、海風に吹かれながら一息入れるのにうってつけ。フェニキア人は西地中海の各地に植民都市をつくっていますが、現在はその多くがリゾート地になっています。なぜなら彼らは交易船を停泊させる湾の沿岸ばかりに都市をつくったため、その地形はヨット・ハーバーにピッタリなのでした。(つづく)

Prifile
青木真兵(あおきしんぺい):古代地中海史(フェニキアカルタゴ)を研究中。好きなものはいちご。
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アンジェロさんとのヨット・ハーバーでのカフェの会話している様子、すぐに瞼に浮かびます。個人的にはアンジェロさんネタ、もうちょっと知りたいですね~。もちろん発掘についてもですが(笑)。ではでは、次回の更新もご期待ください!!(管)