聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

No.15 聖地でおにぎり

 さて、『聖地巡礼ライジング:熊野紀行』が発売されましたが、以前、「いまに続くモノ」と題してご投稿いただきましたAmano_Jokeさんが、熊野についてご投稿いただきました。なんと、舞台は神倉神社です。ぜひ、ご高覧ください!

聖地でおにぎり(Amano_Joke)

世界遺産にも登録され、誰もが知っている熊野。「私だけ」の聖地ではありません。いろんな方が、いろいろ表現されており、そして、私自身も熊野に行っているのに、いまだに、熊野はこんな所、というはっきりした言葉にすることができません。
混沌としていて、生命というか、なにかのエネルギーの最初の場所であり、道の途中で厳しく歩く所であり、ヒトが亡くなって行き着く場所でもあるように思えます。そして、誰かにちゃんとした言葉で伝えることが、いまでもできないのです。
だから、今回の聖地巡礼峠茶屋のテーマにのっかって、「聖地巡礼ライジング:熊野紀行」の出版もあるという、この時期に畏れ多いのですが、できたら、そのひとつでも言葉にできれば、と思いました。
熊野には、いままで一度も行ったことがありませんでした。何度か計画をたてたのですが、プランの途中であきらめたり、近くまで行ったのに行かなかったりしたので、これはもう、呼ばれるまで仕方ないや、とあきらめていました。
全国どこにも高速道路ができて、新幹線はカップラーメンができるくらいの時間で東京駅を出発するこのご時勢に、東京から行くと、現地につくまで半日はかかります。ですから、ちょっと、仕事おわりに行ってみるというわけにはいかないのが、熊野でした。
ところが、なんとか連休がとれて、しかも、いろいろと条件がそろって、やっと行けることになりました。
行きたい場所はいくつかあったのですが、神倉神社に登るというのも、目的のひとつでした。
前の日に熊野へはいって、朝イチで登りました。
最初の鳥居。ここからみると、神社の階段にみえます。むしろ、東京の愛宕神社の出世の階段の方が怖いや、と思っていました。

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ところが、とんでもありませんでした。ごめんなさい。途中、なかば両手をついて、這うようにしてやっとのことで登りました。
これは帰り道に、撮影。行く時は、写真なんて余裕はなかったです。
上からみると、高さがよくわかります。

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オバハンがひいひい登っていると、後ろから子どもの声が聞こえました。
なにか、話しながら近寄ってきたな、と思ったら、ひょいひょいと、二人の男の子が追い抜いていきました。
おお、地元の子どもはすごい。

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途中、お花に励まされながら、そして、杖をたよりにして、息もだえだえにやっと、頂上。
頂上は、おおきな1枚の岩になっています。さらに、その大きな岩の上がお社です。ご神体のゴトビキ岩が見えます。

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参拝しました。
お社の下からでさえ、見あげる大きさ。しかも、朝日があたってどん、という音さえ聞こえるようです。石の圧倒的な存在。神という言葉が適当なのか、よくわからないくらいの力です。お社のうしろゴトビキの岩も、軽々しく入れない場所です。
すごいな、ここ、と思っていると、また、子どもの声。
さっきのお社が載っている大きな1枚の岩をすべり台にして、さっきの子ども達が遊んでいます。

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すべり台、といっても階段やロープがついているわけじゃないので、すべっては、また走りあがって、というのを何度も繰り返しています。
しばらくは、その場にいました。お社の前からは、新宮の街と太平洋が光っていました。

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あれ、子どもの声がしないな、と思ったら、さっきすべり台にしていた岩の上のお社の前で、おむすびを食べていました。
朝ごはんなの?
「ううん、ちがう」(方言で言われたのですが、よく書けません。ご容赦ください)
違う?遊びにきたの?
「ちがう。牛乳買ってきてって、おかあさんに言われた」
牛乳?
「その途中なの」
寄り道なんだ。もちろん、神社に牛乳は売ってませんし。
しかも、おにぎりまで持ってるから、公認の寄り道。
たぶん、小学校1年くらいと、3年くらいの兄弟です。
天気がいいねえ、とか学校楽しい?とか、少し話して気がついたのですが、下の子は首から携帯電話をさげています。
ということは、携帯が操作できるということなので、ねえ、写真とってくれる?とお願いして、カメラで記念写真をとってもらいました。
じゃあ、この(子どもの持っている)携帯電話で写真、とってあげようか?
「いい」
そう?と携帯をみると、苗字と固定電話の番号が、携帯のうらに、マジックで書いてありました。
「これ、死んだら、ここに連絡するように、ってお母さんに言われた」
死んだらなんだ。
死ぬ前に、なんとかするんじゃないの?と思いましたが、ああ、そうだね、死んだら連絡しないとね、と言いました。
しばらくして、おにぎりを食べ終わったあと、二人はまた、跳ねるように降りていきました。
私は、そのあと、最後にお礼をして、神社をおりました。

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神社の下のベンチで、膝を慰めていると、おじいさんから話しかけられました。お掃除をされているそうで、ナギの実をもらいました。若い男性もいて、さっき悲鳴をあげて登った階段を整備されているそうで、土をかついで登っていかれました。子どもがいて、大人がいて、大切な暖かい場所だなあと思いました。
でも、家に帰って思いだすと、神倉神社で会った子ども達が、なんだかこの世の子ども達とも思えないような、不思議な存在だったなあ、と感じました。
それから、おじいさんからもらったナギの種は、土から芽がでませんでした。
また、行って木にする方法を教えてもらいに行きなさい、ということかもしれません。
その時には、また牛乳を買いにくる子どもに逢えるのかな。
・・・
Profile
Amano_Joke:みっちりした医療関係の仕事をしながら、パワースポットによく行っております。4年連続して夏休みは奈良、ということもありました。
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「ちょっと、仕事おわりに行ってみるというわけにはいかないのが、熊野」というくだりがありますが、だからこそ、はまる人はほんとうにはまるんです(管理人もそうです)。私は個人的に神倉神社に登ったときは、ゴトビキ岩の前で、体操しているおじいちゃんがいました(笑)。Amano_Jokeさん、ありがとうございました!では、まだまだご投稿、おまちしております!(というか、締切をさせていただいた3月末ってもうすぐですね…)よろしくお願いいたします!(管)

朝カルさんで両先生の対談あります!

 さて、内田・釈両先生のツイッターにもありましたが、朝日カルチャーセンター中之島教室さんで両先生による「聖地巡礼ライジング  出版記念講座」が開かれます。3月26日(木)の午後6:30~です。間違いなく面白い対談になると思いますので(管理人、断言いたします)、お近くにお住まいの方はぜひ~。詳細は下記のURLをご参照ください。

https://www.asahiculture.jp/nakanoshima/course/b05519aa-efd9-f740-27df-54e30fe890df

*上記URLはWEB決済(クレジットのみ)となるので、もしコンビニ用紙や他の入金方法をご希望の方はお電話(06-6222-5222)へお問い合わせくださいとのことです。

内田先生の「あとがき」公開!

 さて、今日は巡礼部のみなさんや管理人が参加させていただいている『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』の発売日です! ドキドキ、ワクワクしております。さて、先週の釈先生の「まえがき」に続いて、今回は内田先生のご厚意で、「あとがき」を掲載させていただきます。ただただ、とにかく多くの方に、最後まで読んでいただきたい文章です。

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あとがき──内田樹
 みなさん、こんにちは。内田樹です。『聖地巡礼 ライジング』をお買い上げありがとうございました。
聖地巡礼」ツァーは熊野編の後も、「隠れキリシタン」の跡を訪ねる長崎の旅がありました。今年はこれから佐渡を訪れて、親鸞世阿弥の足跡を辿ります。その後の旅程はまだ未定ですけれども、個人的には修験道羽黒三山を経由して、恐山でとりあえず国内編は「あがり」という構想を抱いております。国東半島とか、天川とか、訪れたい聖地はまだたくさんあるんですけれど、それはまた第二次「聖地巡礼」というような企画があったときに検討することにします。
 聖地巡礼の旅を重ねて改めて感じることは、日本の山河は聖地に満ちているということです。当たり前ですね。でも、もうひとつ感じるのは、それらの聖地は破壊されたり、穢されたりすることはあるけれど、「新しい聖地」がそれに付け加わることはほとんどないということです。現代人はもう新たな聖地を発見する力も、作り出す力も失っている。これはとても重い事実だと思います。
 大阪上町台地縦走の旅からこの企画ははじまりましたけれど、そのときに釈先生と二人で繰り返し嘆いたのは、「大地の持つ豊かな霊力に祝聖された空間は、そこに生きる人たちの生きる力を賦活する」という自明のことを現代人は忘れてしまっているということです。現代人は自分がある場所に立ったときに「他の場所とは違う感じがする」ということ自体を感じなくなっている。彼らが土地について求めるのは地価であったり、最寄り駅からの距離であったり、日照であったり、騒音であったり、そういう「商品としての土地」の価値についての情報であって、その場所が発信する微かな「シグナル」には何の興味も示そうとしない。
 僕が久しく「師匠」として崇敬してきた大瀧詠一さん(惜しくも先年亡くなりました)を福生のスタジオにお訪ねしたときに、大瀧さんがこんな話をしてくれました。
「スタジオに入って、まわりを見渡して、最初に『すごいですね。一体レコード何枚あるんですか?』と訊く人間とはそのあと口をきく気がしない」
 たしかに大瀧さんのスタジオは膨大なレコードコレクション、蔵書、映像資料で埋め尽くされています。半世紀にわたる超人的な努力の成果ですから、それはすごいものです。でも、そのときにまず「レコードの枚数」を訊ねた人たちは、その答えを得たときに(例えば自分自身のレコードコレクションとの枚数を比較して)、大瀧さんの「スケール」を推し量ろうとしたのだと思います。それによって大瀧さんがしている理解を絶した事業の意味を「自分が理解できる範囲」に縮減しようとした。
 それを大瀧さんは咎めたのだと思います。まず「声を失う」ということがいちばんまともな反応だったのではないか、僕はそう思います。
 でも、現代人は聖地に立ったときに、まさに「レコードの枚数を尋ねる」ようなことをしている。もし神社仏閣や依り代や霊地を前にして「この建物は築何年ですか?」「毎年何万人くらい観光客が来ますか?」「固定資産税はいくらですか?」という質問がまず出てくるような人には聖地が発信している霊的な「シグナル」はまったく届いていないということです。仮に届いていたとしても、遮断している。そんなシグナルを聴き取っても、世俗の用事には何の関係もないからです。
 前にも書いたことですけれど、都市開発で巨大なショッピングモールや集合住宅が次々と建てられていますけれど、そういう建物の中に寺社を勧請しようとするデベロッパーはまずいません。そもそも彼らは「勧請」という日本語の読み方も意味も知らないのでしょう。
「かんじょう」というのは「神仏の分霊を別の所に移して祀ること」です。でも、現代でも例外があります。それは劇場の楽屋です。楽屋だけは、どんなハイパーモダンな建築家が設計しようと神社が勧請されています。楽屋入り口の横には神棚が祀ってある。それは劇場が発生的には「この世ならざるもの」が来臨する場だからであり、俳優が「この世ならざるもの」が憑依する依り代だからです。そのようなものは「存在しない」といくら建築家や館主が言い立てても、「勧請を止めたせいで、スタッフが奈落に落ちて死んだり、照明が落ちてきて俳優がけがをしたり、劇場が火事になって客に死人が出たら、あなたたちはどう責任を取るのか?」という俳優やスタッフたちの必死さには抗しきれない。
 地鎮祭もそうです。なんであんな虚礼に出費しなければいけないのか、施主には意味がわからない。でも、地鎮祭をしないと工務店のスタッフは現場に入りません。地霊を鎮めて、事故が起きないように祈願するというのは人類史のほとんど最古の層に属する儀礼です。
「興」という漢字がありますけれど、白川静先生によると、これは「儀礼の時、地に酒を注いで、地霊を呼び起こし、慰撫する」さまを描いた象形文字だそうです。古代中国にはじまった呪鎮儀礼がいまでも行なわれている。
 劇場楽屋への稲荷の勧請にしても、地鎮祭にしても、太古的な起源を持つ儀礼はいまでもある種の霊的感受性(というのが気になる人は「直感」と言い換えてもらってもいいです)の発動が強く要請される職業ではいまも行なわれています。合理的な根拠をいくら羅列しても、これらの職業人がこの儀礼を止めることはありません。それが集団的に伝えられてきた経験知だからです。
 僕の道場である凱風館では、正面に合気道開祖植芝盛平先生の肖像写真を置き、神棚には地元の元住吉神社祭神を祀り、二代道主植芝吉祥丸先生の「合気」の文字と多田宏先生の「風雲自在」の文字を扁額にして南北の長押に掲げています。それは武道の道場もまた「この世ならざるもの」の来臨が要請される場所だからです。鈴木大拙が「大地の霊」と呼んだ自然の生命力、野性のエネルギーを受け容れ、それを整えられた身体によって制御する技術、それが武道です。僕はそういうふうに理解しています。だから、道場は霊的に浄化された場所でなければならない。そんなものには何の意味もないと思う人もいるでしょう。人間が動き回れる空間があれば、それで十分だと思っている人は、道場を使っていない時間にはカラオケ教室にでも、こども体操教室にでも貸し出したらどうかというようなことを考えつくのかもしれません。でも、「そういうこと」をすると道場の空気が変わってしまう。稽古できる状態に戻すために、それなりの儀礼をしないとはじまらない。
 合気道の稽古をした後、道場の扉を閉めます。それから次の稽古まで二十四時間無人ということがあります。一日経って道場の扉を開くと、道場内の空気が粒立ち、つややかになっていて、ひんやりと肌にしみ入るのがわかる。二十四時間誰も立ち入っていないだけで、道場内に何の変化も起きるはずがないのに、はっきりと「空気が落ち着いてきている」ことがわかります。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。でも、僕はその違いがわかる人になってほしくて道場を開き、門人を取っているわけです。
 そういう霊的感受性の洗練ということを、現代日本ではまったく組織的に訓練しておりません。家庭でもしていないし、学校でもしていない、職業訓練としてもしていない。でも、この「微かなシグナルの変化を感知できる能力」はすべての社会的能力の基盤です。目に見えない、耳に聞こえない変化を「感じ取れる」力によって人間はさまざまなリスクを事前に回避し、デリケートなコミュニケーションを立ち上げることができるからです。「肝胆相照らす」も「以心伝心」も「阿吽の呼吸」も「啐啄の機」も、すべて他者との間に精度の高い意思疎通が成り立っている状を示した言葉です。いずれもいわば社会関係を円滑で快適なものにする技能です。その技能開発のためにどのような訓練プログラムが有効であるかについても膨大な経験知が現にある。にもかかわらず、霊的感受性を高める訓練はどこでも組織的には行なわれていない。そのような劣悪な霊的状況に現代日本人は置かれている。
 釈先生と僕は非力ながら、そのような状況をなんとかしようとしてこのプロジェクトを細々と続けているわけなのであります。この本を読んだ方たちがみずから聖地に足を運んで、ご自身の身体を使って「この世ならざるもの」の切迫を感じ取ってくださることを重ねて祈念します。
 最後になりましたが、この冒険的な企画を支えてくださった東京書籍の岡本知之さんはじめスタッフのみなさん、凱風館巡礼部の前田真里部長、青木真兵副部長ご両人はじめ巡礼部員の皆さんにお礼申し上げます。何よりも宗教の本質を探るこの愉快な旅の変わることのない同行者である釈徹宗先生のご友誼に重ねて感謝の気持ちを表したいと思います。
    

釈先生の「まえがき」公開!

 こんにちは、管理人です。さて、投稿企画「私だけの聖地」はちょっと一休みして(もちろん募集中ですが!)、ここでまもなく発売予定の『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』について、両先生から「まえがき」「あとがき」の掲載許可をいただきましたので、順番に掲載させていただきますね。まずは釈先生の「まえがき」です。釈先生が「初熊野」の感想について語られています。ぜひぜひお読みください!
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まえがき――釈徹宗

 学生の頃、宗教学や仏教学の先輩たちがしきりと熊野について語り合っていた。ある先輩僧侶などは、「やっと念願の熊野へ行ってきたよ。いやあ、聞きしに勝るすごいところだった。オレは青岸渡寺が一番感激したけどな」などと熱く語る。みんな、とにかく「すごい」という。
 南方熊楠がブームとなった際に、熊野が注目されたこともあった。あのときも知人が「今、熊野へ行かねば」と駆り立てられていた。梅原猛も、五来重も、司馬遼太郎も、みんな熊野を語る。その後は柄谷行人や町田宗鳳も。とにかく熊野らしい。
 周囲が熊野に魅了されている中、かなりのヘソ曲りである私は行くことを避けていた。興味などないふりをしていたのである。大阪で暮らしているから、その気になればいつでも行けるのに。わざわざ行こうとしなくても、何かの機縁があれば足を運ぶことになるのさ、などと考えていた。そうしたら、五十歳を過ぎても行く機会がないままとなった……。
 しかし、ついにその日はやってきたのだ。

熊野は消費されない
 民俗学者の小嶋博巳によれば、巡礼には「ある特定の聖地に参って帰ってくるタイプ」と「いくつもの聖地を順次経めぐるタイプ」とがある。小嶋はこれを「往復型の巡礼」と「回遊型の巡礼」と名づけている。前者にはメッカ巡礼やサンティアゴ巡礼などを挙げることができるだろう。後者の代表は四国遍路である。
 日本語でもともと巡礼と呼んでいたのは「回遊型」に限られていたらしい。そして、中世まで日本最大の巡礼であった熊野詣はこの典型である。熊野へと到るまでには、九十九王子を参詣するプロセスがある。いくつも設定された小規模な聖地を順次訪れる。そして、最終目的地である熊野へと到着するのであるが、こちらも本宮・新宮・那智と複合的な性格を持った聖地なのだ。
 熊野には中辺路・大辺路・小辺路と、いくつかの巡礼コースが設定されている。この「辺路」とは、本来、海岸部に沿って歩くことを指していたと思われる。そして、そこには古代からの海洋他界信仰があり、さらには補陀落渡海信仰が習合していった。
 目指すは浄土(仏国土)である。浄土願生者にとっても、熊野はケタ外れの魅力を持った地であったのだ。我々の巡礼シリーズは、これまでで最大規模の聖地に向き合うこととなった。名づけて『聖地巡礼 ライジング』である。
 我々の聖地巡礼におけるテーマは「場と関係性」である。単に宗教性が高い場所へとおもむくだけではない。そこで展開されている儀礼行為や舞台装置などにも注目している。また、その場に関わってきた俗信や習慣、権力や政治的な要素も合算して、全体像に向き合おうとしている。だから構成要素を細かく分析するよりは、そこにある「場と関係性」に心身をチューニングすることを優先している。この姿勢は、限定されて把握されがちな「宗教」を無効化するために必要である。すでに文化人類学者のタラル・アサドが指摘しているように、我々が持っている宗教観は、近代のキリスト教的視点による私事化された宗教、内面的で精神状態としての信仰に限定された宗教、「宗教とは何か」などといった問いが成立する宗教、そんな特化された「宗教」(カッコつき)になってしまっているのである。
 近代の知性によって彩られた宗教概念で熊野を読み解くことはできない。熊野の正体に、近づくこともできない。熊野の宗教性は、近代的自我が消費できるほどやわではない。とにかくでかい。しかもそのでかさがむき出しなのである。

加速する内田樹
 熊野ですでに四度目となった聖地巡礼。内田先生の霊的直観にもとづく言説の暴走は、回を追うごとに拍車がかかる。特に熊野では遠慮も躊躇もなく存分に暴走しておられた。「熊野はバリだ」「和歌山とトルコの霊的結合」「本宮大社の社殿流出=長州陰謀説」など、もうどう反応よいのか、ドギマギしてしまう。本書に収録できない部分もかなりあったと思う。
 しかし、むしろ内田先生がおかしなことを言い出すのは、霊的直観がメリメリと活発化しているときなのである。そばで聞いていると、求心力の強い渦に巻き込まれそうになる。その気にさせられてしまう。内田先生との聖地巡礼は、のせられないように歩かねばならないのである。そのあたりの釈のためらいぶりをお楽しみいただければ、私の役割は果たせたことになる(なるのか?)。
 本書は東京書籍・岡本知之さんによる涙なくしては語れない細やかな配慮と粘り強い駆け引きによって成立した。さらに東井尊さんと熊谷満さんを加えたチームに牽引されてゴールすることができた。あらためて御礼申し上げる次第である。
 また、今回はナビゲーターの辻本雄一さん・森本祐司さんに多大なご尽力をいただいた。この場をお借りして深謝申し上げたい。
 そして巡礼部の皆さんにもひと言。巡礼部の中にいつの間にか御朱印部が派生してしまい、時には「先に御朱印を押してもらわねば」と駈け出していく者が出る状況となっている。いかん、そんなことでは。我々はスタンプラリーをやっているのではないのだから。とはいえ、いい大人が聖地に身をゆだね、無邪気にはしゃいだり畏怖したりしている姿を見るのはなかなか楽しい。今後も続く聖地巡礼、よろしくおつき合いの程を───

No.14 『置いてきた心魂』

 さて、「私だけの聖地」の投稿、続いては、平原さんにご投稿いただきました!「大学の恩師」「農家の方」「ご友人」といった、ご自身の貴重な体験を文章にされています。大学の恩師の方がチャーミングで、管理人好みです……でも、それは読んでのお楽しみ(笑)。ではでは、ご覧ください!
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置いてきた心魂(平原仁志)

 私は、奥羽大学という大学の文学部フランス語フランス文学科の出身です。同大学の同学部は、今はもうありません。
 ここ数年、あの緩やかだった学生時代のことを思い出すことが多いです。目の前の世知辛くもある現実の中で無意識的に心のガードを固めて閉ざしぎみにしてしまっているから、ガードゆるゆるだった若かった頃のことを思い出すのかもしれません。
 そんなわけで今回は、心の故郷の思い出話を幾つか書いてみようと思います。(後に本題に繋げます。)
 さいたま市の出身で、それほど学習意欲の高くなかった私は、「東下り(現代版)」とかなんとかキャッキャ♪言いながら、みちのくの町で独り暮らしを始めたのでした。そして大学の独り暮らし仲間と共同的な生活を送るようになるわけです。独り暮らしでありながら一人でいた時間が少なかったように思います。あの頃は日替わりで誰かしらとのんびりとした共同生活してましたから。大学の近くに部屋を借りて住む独り暮らしの大学生の友人があちこちにいたので、あちこちにお邪魔していたのです。不慣れな生活状況の中で、彼らには随分と助けられたと感じています。

 もちろん、私が助けられたのは学生の友人によってだけではありません。
 私は大学の文学部での4年間、申し訳ないことに勉強していた記憶はあまりないのですが、フランス語を勉強していたということに一応なっていました。
 その頃いつもお世話になっていた大学の先生と半ばプライベートなおしゃべりをしていた際に、「君はブッディストなんだね!」と言われた事がありました。真意は今でも分かってなかったりします。その時先生は、親鸞がいかに世界に誇れるかについて力説していたのを覚えています。私にとって少し難しい話でもあったので、「確かに家は先祖代々浄土真宗のお寺にお世話になってるしなぁ。」という程度の理解にしか及ばなかったのですが、今でも私は「どの辺がブッディスト的なのかなぁ?」と考えたりしているのです。おっしゃった先生のほうはとっくに忘れているに違いないが。
 私が「ベストな状態を目指して頑張ります。」などと言った時には、「ベストはやめな、ベター、ベター!」というようなアドバイスしてくださったり、卒業の際に私が「これからもフランス語の勉強を独学で続けますっ!」と言った時には、「もうやめたら。」と率直におっしゃってくれたりもしました。これから始まる新しい世界に集中せよ!!というような意味であったと記憶しています。......それか全く才能がないということだったかのどちらか、あるいは両方の意味だったかもしれません。 
 大学卒業後、その先生は私の結婚式にも出席してくださったのです。
 また、在学中、仏文学の学会の際に雑用のお手伝いをさせてもらったこともありました。学会終了後に、喫茶店に連れて行ってくださったりした時のこととかを、今でもなんとなく覚えているわけです。
   
 大学関係者以外の人でも、お世話になった人たちがたくさんいるので少し書いてみたいと思います。
 当時、農家のお宅で家庭教師をやらせてもらっていました。勉強が終わると、大きな食卓にそれはたくさんのおかずが並んでいる昔ながらの大家族の夜ご飯を、「一緒に食いっせー」と、そのお宅のお婆ちゃんが誘ってくださるのです。それはまるで「食いしん坊万歳」のような世界で、半端じゃないおもてなしでした。食べても食べても、「食いっせー」と言って次から次へとすすめてくれて...、こちらが「今日は食べてきたので...」と言っても 、「食いっせー」と言って次から次へとすすめてくれるので、それはそれはお腹パンパンだった時さえあったのでした。
 その上、帰り際にも、おにぎりやフルーツなど、がっつり手渡してくれるし、自家製のお米を袋いっぱいにくださる時もあれば、自家製のまだ発酵途中のスパークリング状態ののワインを一升瓶でくださる時もあるほどの、おもてなしぶりでした。(※複数件やっていたが、そういうような御家庭が多かったように思う。)
 
 そういった気取りのない円居の経験が、私自身をつくる大きな要素になっていたような気がしてます。そういった事のありがたみを、長い年月超えて改めて実感しているのです。
 
 夜中に、大学の敷地内の芝生の庭の、東屋のあるあたりをクラスの友人達と散歩していた時、牛蛙たちが「もーぅ(帰る?)♪」と合唱していたのを思い出します。昔の事です、今も変わらないであろうか? 円居の楽しさ以外で、学生生活を通して私が覚えていることといえば、巨大スイカやキャベツ・キュウリの本当の味や、しじまの虫の音や天の川や流星群や風や楓といったようなもののことばかりです。そういったものたちの言葉にできないプライスレスさを、仮にひっくるめて、「名前の前のなにか公的なもの」(名前をつけるとなにか私的なものになってしまうような気がするので)とでも呼ばせてもらいたいと思います。そういったものを肌身で感じとることができたことは、私にとってかけがえのない経験になっているのではないかと思うのです。
 
 未来の私へと続く目には見えない一本道は、そんな心の故郷(学生生活の場)から続いているにちがいないのです。自ら選んだ道か、自ずと選ばされた道か、よくわからないのですが、私が今歩むことができるのは、「この道しかない」のだろうなぁとしみじみ思って。
 だからそんな思い出の場所のことを私は、「私だけの聖地」と呼びたいと思うのです。
 今はもう無くなっってしまった学部と一緒に、「置き忘れた私の心魂」が眠っているかもしれない。
 もう長いこと訪れてないが、巡礼すれば若かった頃の僕の心を取り戻せるかもしれない、、かなぁ?

Profile
平原仁志:41歳、学習塾の先生です。詳しくは本文にて。
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「未来の私へと続く目には見えない一本道」という表現を目にしたとき、管理人は、内田先生が『日本霊性論』でも書かれていたスティーブ・ジョブズの伝説のスピーチの「Connecting the dots」の部分を思い出しました。改めまして平原さん、ありがとうございました!
 では、『聖地巡礼ライジング』の発売も近づいております。来週以降、釈先生の「まえがき」、内田先生の「あとがき」を両先生の許可を得て、掲載させていただきます。ご期待ください!(管)

No.13 膜の中の2分間

  さて先日、『聖地巡礼 ライジング:熊野紀行』の告知をさせていただきましたが、今回はその続きの「キリシタン編」で、長崎をご案内いただいたライターの下妻みどりさんに「私だけの聖地」をご投稿いただきました。長崎聞くと、管理人には、あの巡礼の夜の飲んだくれた宴会が思い出されます……。長崎をとことん愛する下妻さんの、その「中心部」に入った記録です! ぜひ、お読みください!
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膜の中の2分間(下妻みどり) 

 聖地は、厳密な空間。神社であれば、鳥居や注連縄などの結界が張られていますが、あれはハッタリでもなんでもないと思います。聖地度を測る「サーモグラフィー」みたいなものがあったら、本当の聖地は、それはそれはくっきりと色分けされるはずです。
 私にはずーっと行きたい「聖地」がありました。龍踊り(じゃおどり)やコッコデショで知られる長崎の秋の大祭「くんち」の踊り馬場、それも「10月7日の朝の諏訪神社」の時にです。くんちは3日間あって、いくつかの「本場所」や町中での「庭先回り」が行われるのですが、その年いちばん最初の奉納踊りは、それはそれは格別なもの。踊りや船や龍を奉納する踊町(おどりちょう)の皆さんに聞けば、そこに立つと頭は真っ白、日常生活ではまず感じることのない緊張や恍惚に包まれるというし、自分自身の気持ちの問題を越えて、その場に「なにかがいる/ある」という人もいます。小さいころからくんち好きな私にとっては、まさに「聖地」です。

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 ふだんお参りに行けば「こんなに狭いのか~」という、十数m四方の石畳の空間。これは西浜町の龍船(じゃぶね)の稽古です。数ある船の中でもいちばん大きくて、10mを越えています。向かって左側に作りかけの桟敷がありますが、当日はこれが踊り馬場をぐるりと取り囲みます。手前に人が座っているのは「長坂(ながさか)」という、本殿につながる階段で、つまり「神さま」とおなじ目線で見られる客席。桟敷は高い席で4人一升3万円ですが、ここはなんと無料です(昔は早い者勝ちでしたが、現在はハガキ応募の抽選です)。
 三方を囲む、何千もの人の視線と期待。その向こうにおわします神さまの気配。それがぎゅうーーーーーっと集まっているところ。いったいどれほど、ビリビリ激しいものなのでしょう。あぁ、入ってみたい。でも私は踊町の住民ではありません。ただ、子どものころには住んでいたことがあります。奉納踊りには、基本的に踊町の小学生はなんらかの形で出られる…つまり「聖地」に入ることができるのですが、くんちの出番は7年に1度。不運なことに、小学校の6年間がその「7年」にすっぽり入っていました。
 しかし、おすわの神さまがそんな私を不憫に思ってか、特別な席を用意してくださいました。何年間か地元のテレビ局で仕事をしていたことがあるのですが、ある年「中継の放送席のAD」のお役目が回ってきました!

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 これは数年前のテレビの画面(万屋町の『鯨の潮吹き』)ですが、向かって右側のちょっと下にある紅白の幕のところ。鯨を曳いている人の頭の上あたりが、私が座った放送席です。近い! 近いです! もちろんそれまで見た中ではいちばん近い場所です。「一升3万円」、それも徹夜で並ばないと買えないプラチナチケットレベルです。でも、高さも違うし「外側にいる感」は否めませんでした。
 しかししかし、またもやチャンスが巡ってきました。2004年、樺島町のコッコデショの番組を作ることになったのです!夏の稽古にもずっと通ったからか、本番の日には町の人が付けるリボンもいただき、報道関係者が入れないところまで行くことができました。

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 この写真で言えば、向かって右側の、鯨の納屋の屋根の下。白い着物の人たちがいる、あのあたりです。本当に目の前です。手を伸ばせば触れるはずのポジション。「一般人」としてはMAXだと思います。
 でも、やっぱりそれは「外側」でした。すぐそこに異様ともいえる熱気があるのはわかるのです。わかるのですが、近づけば近づいただけ、自分がいる場所が「外側」だということを、ありありと感じました。同時に、どんなに好きだろうが、それについて三日三晩語ろうが、番組を作ろうが、祭りというものは、やっているその人たちのものだということも、いやというほど思いました。
 目の前にあるが、自分が立っている「ここ」では、絶対にない。本当にそこに立たなければ、自分のものとしてそれをしなければ、聖地にも祭りにも、永遠にたどり着けない。
 いまさら踊町に住んだところで、私はもう子どもではありません。日本舞踊の名取や、検番の芸子衆なら出られる可能性はありますが、残念ながら扇のひとつも持ったことはありません。ましてや男でもないので、船も曳けず、コッコデショも担げません。この人生ではもう「聖地」に足を踏み入れることはないのだろうか…。
 しかししかししかし! 「念ずれば通ず」なのか、2度も用意した「特等席」に飽き足らない私に神さまが折れたのか、その4年後、縁あって2歳の息子が諏訪町の龍踊りに「ガネカミ唐人(『ガネ=カニ』のような髪型の唐人。唐子です)」として出してもらえることになりました。小さい子どもには付き添いが必要です。そう、息子の手を引くふりをして、ついに「聖地」に突入する日がやってきたのです!

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 向かって左の赤いターバン&ベストが息子、ベージュっぽい着物が私です。息子よりも緊張していて、むしろ息子に手を引いてもらう感じでした。単なる「龍踊の前の子どもの行列、しかもその付き添い」ですから、朝4時に着付けに行ったところで、踊るわけでも誰に注目されるわけでもなく、「聖地」を一周ぐるりと歩くだけなのですが、本人にとっては「おーごと(大事)」です。
 そしてそこは、4年前に立った「目の前の外側」で想像していたのとは、ぜんぜん違うところでした。もっと、やけどしそうに熱かったり、息ができないくらい密度が高かったり、張りつめているものだと思っていましたが、違うんです。ほわーっと、やんわりと、ふんわりとあたたかくて、まわりの音が聞こえてるんだけどちょっと遠くて、そして途方もなくきめ細やかな何かに満ち満ちている…あんまり意味をつけるのは野暮でしょうが、あえてたとえるなら、胎内っぽい…そんなようなところ。目には見えないけれど、確実に「なんらかの『膜的なもの』に包まれた内部」に入って、出てきた実感がありました。
「巡礼時間」は2分くらいだったでしょうか。しかし、子どものころからそこへ行くことを焦がれつつ、自分の力ではついに叶わなかった私にとっては、とてもとても長い一瞬でしたし、いまもずーっと、あの時あの場所で包まれたものとつながっているような気がしています。

Profile:
下妻みどり(しもつまみどり):ある「見える人」に「あなたは霊的なものが好きだけど、霊感はありません」ときっぱり言われつつ、長崎の歴史の水底に沈む声を聞きたいと町をさまようイタコ、もとい、ライター。「聖地巡礼」長崎編ではナビゲーターを務めさせていただきました。
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いや~下妻さんの「ワクワク」感が伝わってくる文章ですね。それにしても、長崎って、なんていうか、日本のように日本でないような管理人の中でも消化できないところがあります。そこに、キリシタンなんて要素が入るようなら……頭は破裂(笑)。でも、長崎ってほんといいところですよ~。今度は管理人は家族で行きたいなって思っています。(管)

『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』の予約開始!

 さて、「私だけの聖地」の更新が続いていますが、ちょっと休憩して朗報を。管理人がお手伝いしている「聖地巡礼」シリーズの第2弾『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』の予約が開始されました! 発売日は3月4日(お店により前後する場合あり)のようです。
 当然ですが、管理人も巡礼部さんとともに取材にご一緒しており、内田先生と釈先生の密度の濃いトークを堪能させていただいております。熊野本宮大社那智の滝といったメジャーどころから、船玉神社や補陀落山寺など、ふつうのツアー旅行ではなかなか訪ねることができない「聖地」まで、いずれの場所でも両先生のトークが前作以上に炸裂しているとのこと。今回は熊野の現地のナビゲーターの方も一緒で、どんな「熊野本」よりも自由な発想で熊野の宗教性について論じられているはず。まだ時間はありますが、ぜひご一読のほどを! 取り急ぎのお知らせでした!

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 『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』(税別1,500円、東京書籍)