聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

釈先生の「まえがき」公開!

 こんにちは、管理人です。さて、投稿企画「私だけの聖地」はちょっと一休みして(もちろん募集中ですが!)、ここでまもなく発売予定の『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』について、両先生から「まえがき」「あとがき」の掲載許可をいただきましたので、順番に掲載させていただきますね。まずは釈先生の「まえがき」です。釈先生が「初熊野」の感想について語られています。ぜひぜひお読みください!
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まえがき――釈徹宗

 学生の頃、宗教学や仏教学の先輩たちがしきりと熊野について語り合っていた。ある先輩僧侶などは、「やっと念願の熊野へ行ってきたよ。いやあ、聞きしに勝るすごいところだった。オレは青岸渡寺が一番感激したけどな」などと熱く語る。みんな、とにかく「すごい」という。
 南方熊楠がブームとなった際に、熊野が注目されたこともあった。あのときも知人が「今、熊野へ行かねば」と駆り立てられていた。梅原猛も、五来重も、司馬遼太郎も、みんな熊野を語る。その後は柄谷行人や町田宗鳳も。とにかく熊野らしい。
 周囲が熊野に魅了されている中、かなりのヘソ曲りである私は行くことを避けていた。興味などないふりをしていたのである。大阪で暮らしているから、その気になればいつでも行けるのに。わざわざ行こうとしなくても、何かの機縁があれば足を運ぶことになるのさ、などと考えていた。そうしたら、五十歳を過ぎても行く機会がないままとなった……。
 しかし、ついにその日はやってきたのだ。

熊野は消費されない
 民俗学者の小嶋博巳によれば、巡礼には「ある特定の聖地に参って帰ってくるタイプ」と「いくつもの聖地を順次経めぐるタイプ」とがある。小嶋はこれを「往復型の巡礼」と「回遊型の巡礼」と名づけている。前者にはメッカ巡礼やサンティアゴ巡礼などを挙げることができるだろう。後者の代表は四国遍路である。
 日本語でもともと巡礼と呼んでいたのは「回遊型」に限られていたらしい。そして、中世まで日本最大の巡礼であった熊野詣はこの典型である。熊野へと到るまでには、九十九王子を参詣するプロセスがある。いくつも設定された小規模な聖地を順次訪れる。そして、最終目的地である熊野へと到着するのであるが、こちらも本宮・新宮・那智と複合的な性格を持った聖地なのだ。
 熊野には中辺路・大辺路・小辺路と、いくつかの巡礼コースが設定されている。この「辺路」とは、本来、海岸部に沿って歩くことを指していたと思われる。そして、そこには古代からの海洋他界信仰があり、さらには補陀落渡海信仰が習合していった。
 目指すは浄土(仏国土)である。浄土願生者にとっても、熊野はケタ外れの魅力を持った地であったのだ。我々の巡礼シリーズは、これまでで最大規模の聖地に向き合うこととなった。名づけて『聖地巡礼 ライジング』である。
 我々の聖地巡礼におけるテーマは「場と関係性」である。単に宗教性が高い場所へとおもむくだけではない。そこで展開されている儀礼行為や舞台装置などにも注目している。また、その場に関わってきた俗信や習慣、権力や政治的な要素も合算して、全体像に向き合おうとしている。だから構成要素を細かく分析するよりは、そこにある「場と関係性」に心身をチューニングすることを優先している。この姿勢は、限定されて把握されがちな「宗教」を無効化するために必要である。すでに文化人類学者のタラル・アサドが指摘しているように、我々が持っている宗教観は、近代のキリスト教的視点による私事化された宗教、内面的で精神状態としての信仰に限定された宗教、「宗教とは何か」などといった問いが成立する宗教、そんな特化された「宗教」(カッコつき)になってしまっているのである。
 近代の知性によって彩られた宗教概念で熊野を読み解くことはできない。熊野の正体に、近づくこともできない。熊野の宗教性は、近代的自我が消費できるほどやわではない。とにかくでかい。しかもそのでかさがむき出しなのである。

加速する内田樹
 熊野ですでに四度目となった聖地巡礼。内田先生の霊的直観にもとづく言説の暴走は、回を追うごとに拍車がかかる。特に熊野では遠慮も躊躇もなく存分に暴走しておられた。「熊野はバリだ」「和歌山とトルコの霊的結合」「本宮大社の社殿流出=長州陰謀説」など、もうどう反応よいのか、ドギマギしてしまう。本書に収録できない部分もかなりあったと思う。
 しかし、むしろ内田先生がおかしなことを言い出すのは、霊的直観がメリメリと活発化しているときなのである。そばで聞いていると、求心力の強い渦に巻き込まれそうになる。その気にさせられてしまう。内田先生との聖地巡礼は、のせられないように歩かねばならないのである。そのあたりの釈のためらいぶりをお楽しみいただければ、私の役割は果たせたことになる(なるのか?)。
 本書は東京書籍・岡本知之さんによる涙なくしては語れない細やかな配慮と粘り強い駆け引きによって成立した。さらに東井尊さんと熊谷満さんを加えたチームに牽引されてゴールすることができた。あらためて御礼申し上げる次第である。
 また、今回はナビゲーターの辻本雄一さん・森本祐司さんに多大なご尽力をいただいた。この場をお借りして深謝申し上げたい。
 そして巡礼部の皆さんにもひと言。巡礼部の中にいつの間にか御朱印部が派生してしまい、時には「先に御朱印を押してもらわねば」と駈け出していく者が出る状況となっている。いかん、そんなことでは。我々はスタンプラリーをやっているのではないのだから。とはいえ、いい大人が聖地に身をゆだね、無邪気にはしゃいだり畏怖したりしている姿を見るのはなかなか楽しい。今後も続く聖地巡礼、よろしくおつき合いの程を───