聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

No.1  なぜかサルデーニャ。

 さて、いよいよ新企画「私が訪れた聖地」がはじまります!(パチパチ)第1回目は、巡礼部副部長を務める青木真兵さんです!

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 「なぜかサルデーニャ。」(青木真兵)

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 「私にとっての聖地」ってなんだろう。テレビでやっていたからとか雑誌で取り上げられていたからとかではなくて、訪れるとなんだか自分が気持ち良くなる場所、私は勝手にこんなふうに解釈しています。言い換えれば、もう一度やってきたくなってしまう場所、と。
 たしかに人間は太古の昔から「場所」に特別な意味を与えてきました。人を何人も押しつぶしてしまいそうな巨岩や、その反対に包み込んでくれる優しいイメージの巨木。「人の力」を超えたものの存在を身近に感じることができる場所は、特別だったのでしょう。現在もそこには神社やお寺があって、数多くの人びとが訪れています。
 ただ「私にとっての聖地」となると、そうでなくても構わない。別に何万人が足を運ぼうが、誰がオススメしていようが、どうでも良いはず。そもそも有名か無名かなど、そんなこと考える気も起こらないくらいの場所、それが「私にとっての聖地だ!」と思うわけです。そういうような気分で、ゆれていれば、そこはサルデーニャ
 サルデーニャイタリア半島の西側ティレニア海に浮かぶ、地中海で二番目に大きな島です。大阪からローマまで約11時間。ローマで乗り換えをして、もう1時間。海を越えれば島の中心都市カリアリに到着です。タラップを降りると目の前には無機質な建物。なかには二本のベルトコンベアが並んでいて、荷物を載せて動き出すのを待っています。その姿をみただけでパワーが湧いてくる、といったら嘘になるでしょうか(嘘です)。
 サルデーニャ島は、ふたつの意味で「私にとっての聖地」だということができます。ひとつは私の専門である古代地中海史研究における、可能性に満ちた資料として。もうひとつは、自分にとっての「大事なこと」を忘れないでいられる場所として。このふたつは異なるようでいて、ぼくのなかでは決して切り離されてはいません。というのも研究資料に触れ続けることで自分にとっての「大事なこと」を忘れないでいられる、ということが起こりうるからです。
 サルデーニャには「私にとっての聖地」がたくさんあります。その一つが島の南西部にある、モンテ・シライという遺跡。そこは古代地中海世界に生きた海商フェニキア人がかつて暮らしていた場所なのですが、ちょっと普通ではありません。一般的にフェニキアの遺跡は海岸沿いにありますが、モンテ・シライは小高い山の上にあるのです。
 2014年夏、私はこのモンテ・シライの発掘調査へ参加するという機会に恵まれました。きっかけはその前年にサルデーニャ島で開催されたフェニキアカルタゴ国際学会。私は発表者として参加したのですが、学会の主催者であるサッサリ大学のある学生と仲良くなることができました。そこで思い切って聞いてみたのです。

「発掘に参加してみたいんだけど…」
「オッケー!リーダーに聞いてみるよ!」

 というイタリア特有の(?)軽いノリで話は大きく前進しました。帰国後、早速リーダーにメールを送りましたが、待てど暮らせどなしの礫。すっかり諦めかけてというか、忘れかけていた今年の4月頃、「返信遅れてすまぬ。おいでよ!」(もちろん意訳)というお返事がありました。日本人として初めてモンテ・シライの発掘調査参加が決まった瞬間、感激のあまりいわゆる「何も言えなくて…夏」状態になってしまった私なのでした。
 モンテ・シライはサルデーニャ島の南西部、カルボニアという地域にあります。ここまでは州都カリアリ中央駅から電車で約一時間。カルボニア・セルバリウ駅に到着した私を調査隊のリーダー、ミケーレ・グルグイスさんが迎えに来てくれました。モンテ・シライの発掘調査は1960年代から始められていて、もう50年近く続いています。元々はピエロ・バルトローニ教授が主導していた調査でしたが、背が高く色黒でクールな若き考古学者ミケーレさんが引き継いだのでした。発掘調査が長期にわたっていることからもわかるとおり、モンテ・シライはフェニキア研究において非常に重要な遺跡、まさに「聖地」なのです。
 さて、元々フェニキア人は現在のレバノン都市国家を営んでいました。彼らは紀元前1千年紀に入ると西に向かって船を漕ぎ出し、各地に交易港を築きます。中でも最も有名な都市がカルタゴです。カルタゴはローマと三度戦って、紀元前146年に破壊されてしまいます。しかしカルタゴ滅亡後もフェニキア人は生き続けていましたし、その戦争の最中も決して一丸となってローマに立ち向かったわけでもありませんでした。当時の地中海における都市国家とは、各々が自主独立して政治的判断を行っていたと考えられているのです。
 そもそもサルデーニャ島にやってきたフェニキア人は、銅や錫などの鉱物資源を本国に持ちかえるためにこの地を訪れました。モンテ・シライは内陸へのルートを監視して資源を無事に持ちかえるために建設された砦だと考えられています。その対岸にみえるスルキスという町が、この地域に暮らしたフェニキア人の本拠地でした。私はそのスルキスの遺跡が地下に眠る町、サンタンティオコの宿舎に学生みんなと寝泊まりすることになったのでした。(つづく)

Profile

青木真兵:古代地中海史(フェニキアカルタゴ)を研究中。好きなものはいちご。

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1回目ではやくも続きかい!という突っ込みはご遠慮ください(笑)。イタリア人との考古学発掘という作業はなかなか日本人には想像できないですよね。続編も楽しみです。次は青山さんがご紹介くださる神戸の聖地、来週更新です!(管)