聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

聖地巡礼フェス 第2回(髙島幸次先生)

 東京ではようやく春の気配を感じられるようになりました。管理人です。さて、前回に引き続き、「聖地巡礼フェス」のレポートです。第2回目は髙島幸次先生が「大阪の霊的復興」についてご講演くださいました。鼎談も含めて話を伺っていると、「当たり前に地霊はある」と自然に思えてきす。そんな空気が再現できていればいいのですが。

第1部「大阪の霊的復興」~高島幸次先生 ご講演~

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聖地のなかった時代

  今日は「大阪の霊的復興」というお題を編集者からいただいています。東京から見ると、大阪は宗教面だけではなく経済的にも劣化していて、復興しないとダメなようにみえているのかなと勘繰っています。私はあまり実感がないんですよ。宗教的には天王寺区の寺町に世界最大級の宗教施設の密集地があって、経済的にも県民総生産(GDP)の第2位を誇るのに、どうしてダメなんだろうか、と考えてしまいます。
 私は都市の性格を「都市格」といっていますが(一般には「都市の品格」の意味ですが)、政治都市、港湾都市、国際都市、商業都市、前衛都市、学問都市、工場都市・・・このように大阪は都市格を変化させながら発展し続けてきた町です。こんなに活力を発揮し続けた都市は大阪だけでしょう。これからどんな都市格に生まれ変わるのか楽しみなんです。それなのに、ダメだダメだと言うから「都構想」とかが出てくるんです。
 それはさておき、本題の「聖地」の話に入りましょう。まず、みなさんが行なっている「聖地巡礼」は、歴史的用語としては「霊地巡礼」ではないかということです。「聖地」って、実は訳語なんです。江戸時代の初めにポルトガル人がつくった『日葡辞書』に「聖地」という言葉は出てきません。それに該当する言葉は「霊地」「霊場」です。その一方で「聖」の字は「聖人」「聖賢」「聖王」などに使用されている。つまり、場所については「霊」を、人間については「聖」が使い分けられていたのです。「聖地」が一般化するのは近代にキリスト教の影響を受けてからなんです。以下では「聖地」を使いますけどね。
 縄文後期くらいまでの日本人は、森羅万象を一体化した心象風景に生きていましたから、「聖地」の意識はなかったはずです。「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行の有名な歌がありますが、このようなよく解らない固有名詞を持たない〈カミ〉が森羅万象の全てに存在していた時代だった。非人格的な〈カミ〉を非意識的に崇拝していたという感じです。ですから、そのうちの特定のある場所を「聖地」と意識することはなかったのです。

「ウチ」「ソト」「ヨソ」

 しかし、農耕を始めたことにより、〈カミ〉の意識が変わる。農耕により、森羅万象の中に人間の生活空間が区画されます。結果、農耕空間は「ウチ」と意識され、それまでの森羅万象は「ソト」と意識されます。このようしてあちこちに「ウチ」が成立すると、他の「ウチ」を「ヨソ」と意識するようになる。
 「ウチ」の空間には、特に昼間には、〈カミ〉の存在が薄くなりますから、「ソト」から「ウチ」へ〈カミ〉の降臨・来臨が必要になる。すると、「ウチ」の〈カミ〉と、「ヨソ」の〈カミ〉を区別するために、〈カミ〉には固有名詞が与えられる。こうして、「ウチ」のなかに聖地が生れ、「ソト」の持つ聖地性が意識されるようになるのです。
 このような心象風景の変化は、仏教の伝来時に、それを受け入れやすい下地をつくることにもなったのですが、このあたりは今日のテーマから離れますので省略します。
 大阪の話に移りましょう。現在の天満橋あたりは、かつては海に突き出した上町台地の北端にあたり、古代には「八十島祭」が行われた場所でした。天皇の女官である典侍(ないしのすけ)が天皇の御衣(おんぞ)を預かり、台地の先端で御衣を納めた筥の蓋を開けて海からの風を御衣に通し、それを持ち帰って天皇が着ると、この国を治める力を得るという呪術的なものでした。
 その後、「熊野詣で」が始まると、京都から船で天満橋あたりの渡辺津(窪津)で上陸し、ここから熊野街道を歩いて熊野を目指します。船路の終着、陸路の出発の地でした。江戸時代には、この地は八軒家浜と名を変え、京・伏見から下って来た三十石船の終着、京へ上る出発の地となります。明治に京都と大阪間に京阪電鉄が開通すると、天満橋駅は大阪側の発着駅になります。その後、淀屋橋駅まで延伸され通過駅になりますが、2008年には京阪中之島線が開通し、天満橋駅は再びその発着駅となりました。
 ここには〈発着の地霊〉がいるといっていいのかわかりませんが、何か不思議なことですね、と鼎談の前に振っておきますね。 

第2部 鼎談 ~高島幸次先生・内田樹先生・〈司会〉釈徹宗先生~

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埋め立てると霊力が下がる

 「『大阪の霊的復興』というお題は、我々もいろいろな場所を歩きましたが、どう考えても大阪の宗教的劣化がいちばんひどいんじゃないか、と実感したところから始まったんです。空襲から短時間で都市化したので、足の裏に霊的なものを感じるプロセスもなく、ごちゃごちゃになってしまっているのではないかと――」。鼎談はまず、釈先生の今回のテーマについて補足説明からはじまりました。「大阪人の信仰の深さは知っていますが、それが町並みに反映されていない気がして」
 それを聞いて、高島先生は「熊野詣でのとき、上町台地を南下している後白河上皇たちは右手にずっと海を見ている。その自然の移り変わりを、しかも八十島祭で支配する権限を受けた大海原が広がっているのをずっと見ていたのに、いまは見事にダメ。地形がどんどん海辺から遠ざかって陸地化したことも原因ではないか」とその理由を探ります。
 高島先生によると、大阪には加島・御幣島・福島・姫島・出来島などの島の付く地名が散見されますが、昔は本当に「島」だったそうなのです。「現代人は地球上の生命はみな海から生まれたという知識を持っているが、古代人が大海原からこの国を治める力を得ると考えたのは面白いですね」と続けます。内田先生も「大阪は、海や水のエネルギーによって賦活された都市だったのでしょう。それなのに海を遠ざけ、川を埋めたのなら、都市としては霊的に死んでしまったことになるのでしょうか」と感想を語られました。

「敬神」と「信心」

 内田先生は高島先生の「農耕がカミを区切った」という考えに賛成し、「ウチとソトをつくっちゃった後のほうが宗教性は弱くなる。そして、制御可能な〈カミ〉と制御不能な〈カミ〉は、この内外の区分けから始まったのではないか」と述べます。
 すると高島先生は、柳田國男のいう「敬神」と「信心」を紹介し、ウチの〈カミ〉を信心する、ヨソの〈カミ〉を敬神する、ようにウチとヨソのカミを互いに認め合うところが、他の宗教と違う大きな特徴であると話します。その例として、江戸時代には大阪の蔵屋敷に、大坂近隣の神様を勧請する藩と、郷里の神様をわざわざ勧請する藩と2種類に分かれたことをあげます。前者が「敬神」で、後者は「信心」というわけです。
 そして、さらに面白い例をあげてくださいます。たとえば、天神祭のときには、大阪天満宮以外の神社の氏子もたくさん来ます。一見すると「神様の浮気」のように見えます。しかし、天神祭の帰りには自分の氏神にお参りする習慣があったそうなのです。すると、その氏神にもそこそこの人出があることになりますからお店がでる。そんな小さい祭りは「もらい祭」と呼ばれた――なにか日本らしい「落としどころ」ですね。

墓参りの人が増えている

 話題はその後、伝統宗教に回帰する現象についての話に移ります。「最近はお祭りが再び盛んになったような面もあるし、住職の感覚からすると、やけに墓参りする人が増えているような気がする」と話すのは釈先生。その流れで、「落語とか講談とか浪曲に復興の兆しがある。それらが心地よいと感じる完成と伝統的な文化や宗教に目を向ける感性はどうも通底しているのではないか」と続けます。
 ちなみに高島先生は、大阪の落語の定席「天満天神繁昌亭」の運営にも携わっていらっしゃいます。内田先生も釈先生も、その高座で鼎談されたことがあり、「サイズがいい」とお気に入りの様子。音楽なども何万人という大きさでライブをするのではなく、1000人とか2000人くらいの小屋のほうがいい、という話から、「宗教教団もそういう方向に進んでいる」とは釈先生の談。
 内田先生は、「巨大な野球場みたいなところ何万人も集めてやるのは、アメリカの伝道師の影響で、ロックコンサートとオーバーラップする。それがどこかの段階で輸入されて、日本の新興宗教が真似しようとした時期があったに違いない」と推測します。
 高島先生は「繁昌亭をつくるきっかけは、当時の上方落語協会桂三枝(いまの文枝)師匠が、どこかで小屋持てないかと天神橋筋商店街で探していたら、大阪天満宮が隣接地をお使いください、と申し出ていまの繁昌亭ができた。実はそこは明治から大正期に「天満八軒」と呼ばれる寄席で賑わった場所なんですよ」と、これまた地霊のような話を披露してくれました。
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いかがでしたでしょうか。大阪という土地は本当に面白い、そう再認識できたご講演・鼎談でした。高島先生、ありがとうございました! さて、いよいよ最終回は、聖地の「スペシャリスト」と言っても過言がないでしょう、植島啓司先生の登場です。ええと、どこまでレポートしてよいものか迷う鼎談でしたが(苦笑)、ぜひそのようなことも含めてぜひ次回もご高覧ください!(管)