聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

聖地巡礼フェス 第1回(茂木健一郎先生)

お正月気分も終わり、寒い日が続いていますね。ご無沙汰しております。管理人です。さて今回からは、2015年9月に凱風館で行なわれた「聖地巡礼フェス」のご報告をお伝えします(といってもだいぶ前ですね)。鼎談なども含めるとかなりの分量になりますので、管理人の感性で重要ポイントをまとめました。ご容赦のほどを。それにしても、今から振り返っても、3人の先生方のお話はドライブがかかってますね~。
ではでは、まずはご高覧のほどを。

第1部 「聖地と起源」 ~茂木健一郎先生 ご講演~

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 今日は、新神戸から凱風館まで80分ほどかけて歩いてきました。その途中にツイッターで御影公会堂を撮影した写真を公開したところ、「そこで私の両親が50年前に結婚式をあげました」という返信がありました。その方にとって御影公会堂は「聖地」でしょう。僕は、聖地とは起源(オリジン)と関係しているのではないか、と思っています。
 たとえばキリスト教だと、マリアの処女懐胎によりキリストが生まれた、ということは、「それなら父親は誰なのだろう」という疑問が生じます。そこから、「イエスの父親は神である」という結論が導きだされる。
 これは結局のところ一種の起源の問題であり、普通の椅子だったとしても、仮に「神の子であるイエスが座った椅子」と信じられるものだったら、それは❝パブリック❞な意味を持ち、聖性を帯びることになるでしょう。
 一方、私は昨年、グーグルの「23andMe」という遺伝子検査のサービスをしたので、時々レポートが送られてきます。そこにはたとえば、私自身に牛乳を分解する酵素であるラクトース酵素があるかないのか、さらには母親のDNAの起源が南のほうにあり、父親のDNAの起源が大陸のほうにあることなどが書かれています。
 つまり、私という人間は、遺伝子レベルでは直接知らないはるか祖先とつながっており、これは❝自分自身❞の「起源」の問題であるとも言えるでしょう。
 また、村上春樹さんの最新エッセイでは、作家になる前に朝から晩まで働いていた喫茶店の話がありますが、そこは村上さんにとっての聖地でしょうし、私自身にだって、母親の出身地の北九州でかき氷を食べた場所とか、はじめてブラックのコーヒーを飲んだ場所とか、思い出すとセンチメンタルになる場所があります。
 そのように、キリスト教の例に出したような、日本でいうと伊勢神宮とか斎場御嶽といった、みんなに認められている❝パブリックな聖地❞と、❝個人的でセンチメンタルなプライベートな聖地❞がある。その関係性を見ていくことが重要なのではないか、と思っています。そして本来の人類にとって聖なるものの起源とは、プライベートなセンチメンタルな領域にしかないとも感じています。ひょっとしたら、文学などの意義はそこにあるのかもしれないと思うのです。


第2部 鼎談  ~茂木健一郎先生・内田樹先生・〈司会〉釈徹宗先生~

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記号にならない前のうごめくもの

 茂木先生の「聖地と起源」をめぐるご講演を受け、鼎談は内田先生の武道とは何か?というお話からはじまりました。
 内田先生は、「世界には輪郭をはっきり持っていない、もうすぐ記号として現前する切迫した❝ざわめき❞がある。訓練を積むとセンサーの感度が上がり、外形的にしっかりと認知できる前にそれを感知できるようになる」とその目的のひとつを説明します。
 茂木先生はそれに同意。内田先生を信頼している理由として、「記号にならない前のうごめく聖性に対する態度」だと述べたうえで、「それを信じるか、信じないか。その感覚を持って何年暮らしたかが、その人の人生にとって重要である」と語ります。
 茂木先生は凱風館の畳をいたく気に入った様子で、いきなり畳の上に寝転がりはじめます。そんな茂木先生を横目に見ながら内田先生は、「学校教育の現場で本当に一番大事なことは、素肌で触れて気持ち場所とか、目に、耳にやさしい場所だとか、そういう空間の中に子どもたちをおいて、皮膚の感度を上げて行くことではないか」と論じます。   f:id:seichi_jyunrei:20150905182710j:plain

プロセスが大事

 続けて内田先生は、「聖地は非常によくプログラミングされた装置」と定義します。熊野古道を例にあげ、「非常に宇宙的な経験ができる。運動の過程で時間が経過していくなかで、心身の変化、生理過程がどう変化するかも含めて考えられている」と話します。
 茂木先生は思い出したように、「千日回峰行をはじめる条件に、お釈迦様の姿を見なくてはいけない、そして確かに見たかどうかを確認する方法があるという。この世の中で本当に大事なことはそういう形でしか起こらない」と続けます。
 それを受けて、釈先生は「見仏三昧」という仏教の言葉をあげて、「もう何十日も不眠不休でやっていたら、それはブッダが見えても不思議じゃないだろうと。でも、それはドラッグを使っても見る可能性だってある。そのようなプロセスをへて得られる体験とドラッグや聖地的な負荷をかけるやり方はどう違うのか」と、茂木先生に質問します。
 茂木先生は「プロセスが大事じゃないかと思っている」と述べ、内田先生は「目標は大事ではない。目標に向かって道を進んでいるイメージを持っているほうが、総合的な心身の能力があがっていく」と説明。そして、その例として釈先生が熊野の神倉神社をあげると、茂木先生も今年のその火祭りに参加していたことが判明します。「その階段がむちゃくちゃで。すさまじい」と、熊野の話で盛り上がりました。

バランスのよい状態とは?

 また、釈先生が京都縁切り寺の話をされ、「露骨なドロドロしたものが集積している」と報告すると、「人の力を奪おうという呪い的なものがもともと聖地の起源だったかもしれない」と茂木先生が提案します。「基本的に聖地はどこで暮らせない場所である」と言葉を継いだ内田先生は、「どうやって適切な距離を取るのかを学ばなければならず、聖的なものに対する感受性は絶対に必要である」と強調します。
 茂木先生は「人格には5つの構成要素があるという研究から、そのひとつであるネガティブ因子が聖地の起源と関連しているのではないか」と仮定し、その例として古来の祟り神や菅原道真などを提示。釈先生は聖地に向き合うことで「自分自身の中の邪悪なものを鎮める効果があるのではないか」と述べます。
 そして内田先生は、「外の環境からの入力に対して感受性があがっている状態と、内側への感受性が上がっている状態、その両方が拮抗しているのが、いちばんバランスがいい状態である。瞑想や坐禅、写経などはその状態をつくりだす」として、「聖地も同様で、僕らが『ザワザワきます』といっているときって、何かが変化した自身の内側を見て、モニタリングしている状態である」と聖地の本質に迫ります。茂木先生はその説に、「それが『心を整える』という言葉なのかもしれない」と同意しました。

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さて、次回は髙島先生の大阪の聖地についてのお話です。ご期待ください! あ、最後になりますが、これらのフェスをまとめた書籍は「いつか」出版されるそうですので、首を長くして待ちましょう!(管)