聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

No.19 粟島物語

さて、いよいよ19回目の「私だけの聖地」の更新です! 今回は近藤さんの「島」をテーマにした文章です。「釣り好き」の管理人としては、冒頭からなんとも言えない趣です。ぜひお読みください!

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粟島物語(近藤蔵人)

 鶴見俊輔と後に三木首相の閣僚となった同級の永井龍男少年は、それほど仲が好いわけでもない同級生の家を度々訪れた。後年になって、二人が何気なく、お姉さんが美人だったから遊びに行ったと話したが,お前もそうだったのかとうなずいたと書いている。
日本人は、面と向かって美しいですねとは言えないところがある、そのうえ何か後ろめたいと考えるので、若い時には話題にならなかったのだろう。
(そのつつましい伝統に沿わない記述をすることになるが、この物語の性質上、避けることのできない事柄であるし、僕も後年という年代になったので、後程述べることになります)

新潟県の岩船港から船の出ている粟島に、僕が通い始めたのは20年は超えただろうと思う。
当初は、島の東側にある内浦の何軒かの民宿に泊まったが、おやじさんの気持ちが良くて、みなと屋という屋号の民宿を定宿と決めて魚釣りをした。本保姓であった。
何年前だろう、奥尻地震の前日であった。
海が真平らで、少しの波でも乗ることのできない大きな魚が釣れることで有名な磯に、おやじさんの小舟で乗せてもらった。
はるか沖にある磯の名はエンガイグリと縄文時代からの名がついている。
磯の周りは急流で、磯から離れて餌を落とし込むと、エサが流されて水面まで浮いてくる。仁丹ぐらいの小さい重りを磯の際30センチ程のところに落とすと、エサは磯を伝わって、深さ5,6メートル近くまで磯際を漂うことができる。
数時間、磯の際にオキアミの撒き餌を投げ続け、日が落ちる頃に、隣で釣っていた釣り友の竿の穂先が動いたと言う。
その数秒後、僕の穂先が、人差し指ほど沈んだ。
来た!心構えを正して、次の当たりを待つ。
こんこんと手元にも伝わる、それでも穂先は、1・2センチの動きだ。
右手で持った竿を、勢いよく合わせる。
乗った。
魚の重みで、竿がしなる。
魚は、こちらを向いて、針がかかった体を反転させたくて、力が入っている。
竿を操作している右手は、魚の大きさを感じなければならない。
大きな魚を、無理に引き上げようとすると、細い糸は切れてしまう。また、ゆるめたままだと、魚によっては岩陰に潜り込まれてしまう。そのほんのちょっとした瞬間に、魚の種類と大きさを判断しなければならない。
瞬時の判断時間にも魚は反転して、沖に向かって体を移動させた。
かかった魚は、針を外したくて、頭を振り続ける。
鯛だ。
竿がごんごんと震える引きを見せるのは、鯛に間違いない。
この力だと食べごろの大きさの鯛だ。
40センチほどだろう。
沖へ走る鯛を、竿のしなりが止める。
左手でリールを巻く。
鯛が嫌がって、精一杯の力を振り絞って底に潜ろうとする。
今年読んだ、魚に痛さがあるかと言う本には、魚も哺乳類と同じ苦痛を味わっていると結果が出ていた。
この時、鯛は逃げるに集中して、針の痛さを感じる暇はない。
引っ張っている何者かに捕まらないように沖へ沖へと感じているだけだ。
力を使い果たすと、鯛は糸に引かれて、海面に姿を現す。
タモに収まった赤い魚体には、冴えた水色の斑点が光っている。
目の周りにも、美しい水色が映えるが、その眼は何を見ているのだろう。
メガネをかけ髭が生えた僕の顔は見えているだろうか。
空気に触れて徐々に息苦しくなっているのだろうが、人には、魚の死に行く苦しみを感じることは出来ない。感じる経験を持たなかったのだ。
えらの横にナイフでとどめを指す。
暗くなって、みなと屋のおやじさんが迎えに来て、「血が湧いただろう」と僕に声をかけた。
漁師も、良い魚を取ると血湧き肉躍るのだ。
血が踊る興奮のある職業は他にあるだろうか。
この島を訪れて、釣りや磯遊びで都会の邪気を払い,生気を充満させると、一か月は元気に生活できる。
聖地とは、自然が過剰な勢いで我々の胸深く侵入する場所であると思う。
仙人は霞を食うと言われるが、滝壺などで竿を出して魚釣りをしている図では、中沢新一によると、宇宙とコンタクトを取る方法として、座禅ではなく釣り竿に意識を集中しているという、その場所を聖地に変えているのだと思う。
後白河法皇が、京都から熊野参りの遊行に出かけた回数は、在位期間中34回だと言う。熊野にこもり、生気を充満させ京に帰って政治が行われた。熊野古道を輿に乗ってはいるとはいえ、相当きつかっただろうが聖地巡礼にはそれほどの効果があったと言うことだ。
旅館もなく、スナックもなく、ただ、自然遊びするだけの島である。

翌日、津波粟島を襲い、船が打ち上げられたと、電話で知らされた。
一日遅かったら、海面数十センチに浮かんでいるエンガイグリでは、生きて帰れなかった。

内浦では、船で磯に渡してもらわないと釣りたい魚は釣れないが、粟島の西北の釜屋では歩いて行ける地磯でも鯛が釣れると教えられた。
粟島には、大きな船が停泊できる東側の内浦と、小舟しか止めることのできない釜屋と二部落ある。
内浦には、本保・脇川・菅原など、釜屋は渡辺・松浦・後藤・大滝などと苗字が別れており、内浦と釜屋では、方言が違っているとも指摘される。
嘗て、征夷大将軍坂上田村麻呂の東北征伐から逃げてきたといわれる蝦夷・縄文人が、粟島に住んでいたという。大陸から歩いて渡ったと言う説もあるそうだが、粟島の先住民は縄文人であった。
モンゴロイドと言われる縄文人は、目鼻立ちがはっきりして言語学者でアイヌ研究者でもあった金田一京介も縄文人を西洋人と間違って認識していた。
アフリカからチベット雲南を通って日本にやってきた縄文人は世界でも最も早く土器を制作した文明の先駆けの民であった。
代表的な縄文顔は、女姓では吉永小百合、男性では夏目漱石といわれている。
粟島では、9世紀初めに(ウイキペディアによる)水軍・海運を営んでいた松浦一族が縄文人のいる内浦に住み始めたといわれている。その後越前あたりから本保一族が内浦に住み、松浦・渡辺を釜屋に追い立てたとある。
縄文人は、追い払われ、吸収されて純潔を保てなくなった。
かつては、粟穂といわれ、粟生島と呼ばれるが、谷川健一が黄泉の国、死者の国を青の島と言い、それが粟に変わったのだろうと書いている。
なるほど、本土から見る島は青く沈んでいる。
釜屋の松浦家と渡辺家は、縄文と混血したのか事情は定かでないが、明治時代に粟島の民は、女性は眉目秀麗で、男は体格偉大強健にて容貌和順と記されている。内浦ではさほど感じなかったが、釜屋では、この特質を感じることになる。
モンゴロイドである弥生人は、氷河期を生き抜いた顔、目が細く顔のでっぱりが少なく、卵型で、中国、韓国人に近い顔の形、古モンゴルとは異質な顔型である。
粟島の松浦・渡辺の人たちは、古モンゴルの特質を持っていると見受けられた。
天皇家も海人の出自と言われるが、古モンゴルに近かったのではないだろうか。

ある日、釜屋の民宿渡佐の前の路地のベンチに座って釣りの準備をしていると、
「あら、そんな恰好して、お、ほほほ」と、
靴の上から水が入らないようにしたカバーを指して話しかけてきた人がいた。
見あげると、この辺鄙なところに、気品があり、上品な小柄だが美しい人がいるのに驚いた。
のちに、釜屋の初めての民宿・市左衛門に予約して、内浦まで迎えを頼むと、その女性が運転していた。
この部落に、ちょっと毛の抜けた釣り師がいるだろうと、口の悪い釣り友が声をかけた。子供を見つけると追っかけまわし、はなっぺなどと子供を呼んで遊んでいる。
彼が大きな石鯛を釣り上げたところを見たことがある。
素足にサンダル履き、帽子もかぶらず、玉網も持たず竿のしなりで上げようとして竿の真ん中から、ばきっと音がして折れた。そのあいだ、なにやら奇声をあげはしゃいでいる。魚は無事で石鯛がかかったテグスを取って僕たちに魚を見せた。
顔は、やさしそうだけれど鬼のような顔をしている。
それ、私の兄です。と、その人は、明るく言った。
響きのよい声だった。東南アジアで鳥の美声の競技があるが、こんな声なんだろうと想像した。
名はと尋ねると、
松浦ですが、部落の人は,おんちゃと呼んでいます、と言われ、魚釣りのいい場所へ案内してくれると思いますと言った。
それから20年近く、粟島に行くと,市左衛門に泊まって石器時代人の彼と魚釣りに行く。
僕の友達も、その宿で知り合った常連の方たちも、女将の美しさを事上げすることはなかった。
それは、鶴見俊輔たちが、交わさなかった会話と同じ状態であろうと想像できる。
目の前の女性の美しさは言葉にできないもので、常連の方も、無意識に落とし込んだだけだと思われる。
平安時代、日本の女性の美しさは、しもぶくれで引目鉤鼻と言われ、新モンゴロイドである弥生人の顔が理想とされていた。西洋人顔の縄文人は、ディホルメされて鬼の顔になったが、征服された民の宿命なのだろう。
おんちゃの顔は、縄文人の特質をよく現している。
木村伊兵が、昭和30年に撮った秋田の早乙女の美しい写真があるが、(その人の絵を描いたことがある、)際立った美しさで、西洋での絶世の美女とは表現が違うが、よもや、田舎の農家の娘が、これほどの美しさを持って生まれてきたのかと驚くが、彼女の美しさは、これもまた縄文人の特質であろうと想像できる。
子供が本土に住み一度は外に出たが、別れて帰ってきて、民宿の女主として采配を払っている。
民宿に泊まっていると、漁協に務めている彼氏がくる。
その彼が、渡辺栄という渡辺星と言う家紋の人物で恰好が良い。
栄さんのお父さんはもっと美男子だ。若いころは映画俳優にでもなりそうなほどである。
弟の学君も整った顔をしている。そういえば、彼ら三人は僕の絵のモデルになって、絵は彼らの家にある。女主人の絵もあるが、ずいぶん時間がかかって描いたものだが、疲れているのか、悲しんでいるのかそういう表情であったが、女主人は、嫌がって見たがらない。当然、網を上げているおんちゃの絵もある。そういえば、粟島で描いた絵は、縄文気質にあふれた顔を選んで描いていたことにいまさらながら驚いてしまう。
渡さのたいちゃんも、そのおばあさんも、市左衛門の隣のキヨシ君は高倉健の少年時代の顔をして、その父親は、胸が張って武士の体つきに表情をしている。アル中のおじさんも、若いころはモテただろうと想像する。いつぞや売店金ベエで休んでいると、どこかの民宿のおかみさんが横に座り、話しかけるでもなく、ここではお化粧しなくていいから楽だよと言う。整った顔には必要ないと納得した。

家紋の渡辺星は、嵯峨天皇(786-842年)の子の源融(とおる・822-895年)という光る源氏のモデルになった人物、その5代のちの源の綱(953-1025年)の一族だけの独占家紋である。黒丸の星三個、下に一文字、嵯峨源氏渡辺綱流とされている。栄さんの家の家紋である。
天皇は、女房を数十人持ち、子がその倍は生まれた。
すべての子供を天皇籍に入れると、財政上に問題があるので、数人の子を籍に入れ、その他は、「汝のみなもと(源)は朕に発する」として、源姓を授けられた。
だから、綱も直系の子孫に変わりはない。
50人もの子を持った嵯峨天皇の子孫はみな一字名とされている。
栄さんも学さんもその千年の伝統一字名を保持している。
全国には、渡辺姓は10番目に多い姓だが、そのうちの所々で、節分の豆まきをしない渡辺家がある。
源の綱は、4天王と言われ武力の誉れ高かった。
源頼光に使えて、大江山酒呑童子(鬼とも山賊とも言われているが、新潟の山から出たとも言われている)を退治、京都の一条戻橋の上で羅生門の鬼の腕を名刀髪切りの太刀で切り落としたと言われている。
そのため、のちに渡辺家になる源綱の直系には鬼が怖くて寄って来ない故、豆まきの必要がないのだ。
粟島の渡辺家は、隣近所で豆まきしても、豆まきをしないこと続けて千年。ため息がでる。
源綱は、母親の姓である渡辺を継いだ。そして、渡辺綱を名乗る。
渡辺は、大阪、摂津、渡辺津で、渡し守や、水軍の渡辺党を起こし、義経屋島攻めの戦いに参加している水軍である。今でも大阪には渡辺と言う地名があり、駅がある。
主神は大阪にある坐摩(いかすり)神社、神主はもちろん渡辺姓である。
また、松浦姓は、源綱のひ孫、久(1064-1148年)が、北九州松浦に御厨検校を命ざれ土着し、松浦を名乗ることになったが、肥前の豪族として松浦党はさかえたが、嵯峨源氏渡辺流であることに変わりがない。久以後、松浦党を名乗り、今でも松浦半島松浦市と地名がある。
故に、松浦姓も嵯峨天皇の子孫、そして渡辺姓と密接な関係があるが、本土では、渡辺と松浦は、それぞれ別々に存在するが、この粟島にだけ、松浦、渡辺が、共存するのは何故だろう?
彼らは、日本海沿岸にて海運業を営み、その途次粟島に立ち寄り居ついたのだろうか。
それとも、戦に巻き込まれて逃げてきたのかもしれない。
源の綱と、久の関係の記憶が濃厚なため、ここ粟島にだけ両家が共生していると考えられる。
明治には、漁業は自分たちの食べる分だけで、その当時は、10町7反の稲作を共同で耕運し、収穫を分け合ったとある。(現在は大地震で水が枯れ耕作していない)畑も狭いながら作物にはありついたと思われる。
内浦は、西北にある山が風をさえぎるため、北海を航行する汽船も大型和船も海上不穏になれば立ち寄った。佐渡の小此木港と内浦が、北前船のお助けの港と言われた。

西暦800年代から(ウキペディアによる)、渡辺の綱・久が生存しているかもしれない平安時代に松浦・渡辺家が粟島に居つき、本土の両家のように混血することなく、ほとんど純潔に源の血筋が続いた松浦・渡辺家は天皇家と同じ姿に近い形態で現在まであると想像できる。
光源氏のモデルとなった源の融、左大臣になったとあるが、色好みの美男子で才覚優れていたようだ。松浦も渡辺もそれゆえ、かつての貴族らしい美貌な姿を留めているのだと思われる。
粟島には、かつては群遊する馬がいた。本土で源義経の乗っていた馬を離したところ、粟島に泳ぎ着いたと言われる馬の子孫と言われている。源恋しと言う心情が現れている。

地方消滅がいわれる。
2010年粟島の人口366人、出産年齢である20才の女子14人、
2040年人口163人20代の女性2人、と粟島の人口推移が記載されている。
日本で15番目に消滅の可能性の高い市町村とされている。
若年女性人口変化率は-83.2パーセント。
人口統計の予想は、大きな変革がない限り、ほぼ間違うことがないそうだ。
「地方再生を、高度経済成長時代の論理や、企業社会の枠組みでイメージしようとしてもなかなか難しい。むしろ農山村の足元に眠る記憶の古層を掘り起こしてみると、何かヒントが見えてくるのではないか」と、記事があった。
そこで、粟島は、天皇家以外で天皇の最も濃い血筋と考えられること。
紫式部が書いた光源氏のモデル源融という血筋、いまだに鬼が近寄って来ないために鬼退治の豆まきをしない源綱の伝統、絶海の孤島であるが故の純潔を保つことが出来たことを寿ぎ、それらの物語を作ることが出来そうである。

現代人は、外来から影響を受けたものを排除して、本来の形を求めたいと切に願っている。
力の源であるプリミティブな聖地にこもり、野生の力を賦活させたい欲求を持っている。パワースポット巡りがその表れだと感じるが、粟島の住民は、古代からの力を温存して、千年を越している。その古代性に我々が訪れて力を得る理由がある。
人工物の何もない海原に浸ることによって与えられる力もまたある。
仙人もなす魚釣りは、竿先一点に集中することによりトランスが起き、感覚のままに心を広げる瞑想の儀式と同じである。座禅を組むより瞑想しやすい利点がある。
魚釣りは、釣れなくても楽しいのはそれ故である。
そして、生気を取り戻してそれぞれの地元へ帰っていく。
そんな環境に囲まれた粟島浦村という共同体には物語が必要である。
次世代に伝える、全員が共有できる物語。
その物語を、記憶の古層から掘り起こしてみることによって、世界へ向けて発信できる。
嵯峨天皇.源の融、源の綱(渡辺綱)、源の久(松浦久)、彼らの血筋は、良い物語となるだろう。

Profile:近藤蔵人(こんどう くらひと)
昭和26年徳島・喜来町生まれです。大阪に預けられた時期を過ぎて、神戸で家族と高校生活を過ごしました。現在は、群馬県伊勢崎市で、糊口に建築業を営み、頭の中は、音楽と、映画と、文章におぼれた、芸術至上主義なところを持ち合わせた老人です。私が粟島を描いた絵は以下のHPで見ることができますので、よろしければご覧ください。
http://www.go-isesaki.com/kondou_prof.htm#top
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読み応えのある文章ですね。粟島……次回の「聖地巡礼」でもうかがう予定の佐渡にも近く、何かミステリアスで期待も高まります。近藤さんは絵も本当にお上手なので、HPもぜひご覧くださいね。では、次回も引き続きお楽しみください!(管)