聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

No.3 信じるこころ(川上盾)

さて、この企画もおかげさまで第3回目となりました! 今回は長崎巡礼に参加していただいた川上牧師の登場です。

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信じるこころ(川上盾)

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伝説的な日本人伝道師バスチャンが隠れ住んでいたとされる屋敷跡


 旅の始まりでの釈先生の課題設定に従って、「信じる」ということについて考えてみました。今回の旅を通して受けとめ、また感じたことは、「信じる力」、その「強さ」と「深さ」ということでした。
 26聖人をはじめとする、殉教者たちの信仰は、確かに「強い」。いのちに代えてでも守る物がある、その信念はすごいものがあると思います。しかしそのような「強い信仰」を持たねばならない、ということを、私は自分の教会の信徒たちに奨励することはできません。
「ここで殉教すれば、天国(永遠のいのち)に行くことができる」まっすぐにそのように信じることができた信仰は、ピュアである反面、その分シンプルで幅や奥行きは少ないように思います。進む方向によっては、それはテロリストの心理にも通じるものがある…。そう考えれば、それは大変「こわい」世界でもあります。
 一方で、踏み絵を踏みながら、つまり現世の生命に執着しながら、それでもキリスト(マリア)への信仰を捨てきれなかった人々がいます。迷いながら、悩みながら、自己嫌悪や疾しさや居直り感や… いろいろな思いを抱えながら、裏切りと追従の間を生きた人々。「これは仕方ないことだ」という思いと、「こんなことであってはいけない」という思い。その二つの思いの往復運動の中に身を置いた人々。そんな人々に、私はひとりの人間として共感するものを感じます。
 ド・ロ神父記念館で、説明をしてくれたシスターに聞いたお話に衝撃を受けました。
「私どもの祖先は、踏み絵を踏んだ人々なのでしょう。ある人は踏み絵の日にはまっさらな足袋を履いて出かけ、踏み絵を踏んだ後、家に帰って足袋を焼いて、その灰を水に溶いて飲んだそうです」。
 遠藤周作はどこかで、かくれキリシタンのことを「ころびながら信仰を捨てきれなかった人々」と称しました。でも私は、足袋の灰を飲んだその人のことを、「ころんだ」とはどうしても思えないのです。
 今ここで殉教するわけにはいかない。現世において何かを守らねばならない。だから心ならずも踏み絵を踏む。心の中で泣きながら踏む。そのことで抱く悩み、疾しさ、ためらい、葛藤…。そのような思いのひとつひとつを拾ってきた宗教性に、私は「深い慈悲」を感じます。そんな「深い慈悲」の世界が受容してくれたからこそ、かくれキリシタンたちは生き続けることができたし、結果的にそのことで守られてきた世界があると思うのです。
 しかし一方で、そのような「深い慈悲による全面受容」は、下手をするとずぶずぶの自己肯定や、居直り・甘さを生み出すことにもなります。その意味では殉教者たちの実存、その「強さ」が問いかけてくるものも、私たち人間には必要なのかも知れません。そもそも「教祖が殉教者」であるキリスト教、その教えを信じる者には、そんな問いを抱きつつ生きることが宿命付けられているのかも知れません。
「それでいいのだ」と「それでいいのか」との間を生きる。それが今回の巡礼の旅で感じた「信じるこころ」というものでした。
 
-追伸-
黒崎教会で“アヴェ・マリア”の献歌をさせていただいたことは、生涯忘れ得ぬ経験となりました。ありがとうございました。

Profile
川上  盾(かわかみ・じゅん):京都府出身同志社大学神学部卒。2014年3月まで日本キリスト教団東神戸教会牧師、4月より群馬・前橋教会に移る。イエス・キリストジョン・レノンをこよなく敬愛する53歳。アングラ・フォークの洗礼を受け、中学時代からギターを始める。賛美歌に限らず、あらゆるジャンルの音楽を通して生きる喜びを伝えることに使命を感じている。

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長崎巡礼は「風通しのよい明るさ」のようなものはあまりなく、牧師に歌っていただいた"アヴェ・マリア"は、管理人のなかに巡礼における「風」をもたらしていただいたような気がしました。ありがとうございました! さて次はもう4回目になります、井上英作さんの「1975年 夏」です!