聖地巡礼 峠茶屋

衰微した日本の霊性を再生賦活させる内田樹先生・釈徹宗先生による「聖地巡礼ツアー」に参加している巡礼部および関係者によるブログ。ロケハンや取材時の感想などを随時お伝えしていきます。

NO.21 なぜかサルデーニャ。3

申し訳ありません……最後の更新からずいぶん経過してしまいました。聖地巡礼峠茶屋管理人です。さてお待たせしましたが、投稿企画「私だけの聖地」の最後の掲載は、巡礼部副部長の青木真兵さんの「なぜかサルデーニャ。3」です! すでに2回投稿いただいており、今回が完結編になります! これまでの2回のご投稿とあわせてぜひぜひ、ご高覧ください!

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なぜかサルデーニャ。3(青木真兵)

 イタリア半島の西側に浮かぶサルデーニャ島。ひと夏、ぼくは青い海と輝く太陽が照りつけるこの島にて、発掘調査に従事してきました。石で囲まれた遺構の土層を、一つずつ剥がしていく作業。掘り返した土のなかにあるかもしれない小さな資料に目を凝らし、見つからない場合は一輪車で土捨て場へと向かいます。なにか特別なものが出てこない以上、ひたすらこれを繰り返すのでした。
 そういえば、初めての一人旅はトルコ。2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロによって、高校生だったぼくは「キリスト教イスラム教という二つの宗教が現在もなお対立関係にあること」に大変なショックを受けました。ヨーロッパの中世史がそのまま目の前に現れたような、そんな衝撃でした。テレビから流れてくる情報を真に受けたぼくは、「イスラム教徒ってのはなんて悪いやつらなんだ!」と憤慨したのを記憶しています。でも「本当にそうなのかな?会ってみないとわからない!」、これがぼくをトルコに向わせた一つのきっかけでした。
 トルコを訪れてから約10年。その間にもチュニジアリビア、エジプト、イタリア、スペインといった地中海沿岸諸国を回りました。宗教はもちろん、現在の政治体制、ヨーロッパの支配を受けた近現代史の違いなどによって、肌で感じる雰囲気はそれぞれ異なるもの。しかしやはり「地中海世界」という同じ自然環境を共有する文化圏の存在を、なんとなく理解したのでした。
 さてこの度、サルデーニャ島にて参加した調査地は丘の上にあるモンテ・シライという遺跡。古代地中海世界において沿岸部に暮らした海洋民族フェニキア人が、内陸との交易をするためにつくった拠点だといわれています。調査自体は朝8時から12時半という比較的涼しい時間帯にだけ行われ、ぼくが担当したのはC46という番号がふられた「凝灰岩の家Casa di Tufo」。なぜ「凝灰岩の家」という名前がついているかというと、正面の壁だけに白い凝灰岩が使われていたからです。
 遺跡というのは見つかったモノ(遺物)が、どのような位置関係でその場所から発見されたのかによって、「その空間が何に使われていたのか」ということを推測していきます。残念なことにC46がどのようなことに利用されていた空間なのか、それを決定付ける証拠はまだ出て来ていません。ただ出土する土器をみるに、フェニキアカルタゴ期にさかんに利用されていた空間であったようです。
 発掘調査日の夕方には、午前中に発掘された土器を洗います。バケツに水をはり、3人がひとつのグループになって、歯ブラシで優しく泥を落とします。たまに混じっている小石をサッサリ弁ではクラッヒュCrasthuというらしく、イタリア語と全く異なるサルデーニャ語を教えてもらいました。そして再び自由時間をはさみ、21時過ぎから夕食。3、4人がグループとなって交代で夕食をつくるのですが、なかにベジタリアンの方がいたこともあり「前菜でサラダ、主食がライスサラダ」など、ヘルシーでお腹に優しい食事となりました。

f:id:seichi_jyunrei:20140708104443j:plainモンテ・シライ遺跡からの眺望


 ぼくのことをお世話してくれたのは、体の大きなアンジェロおじさん。おじさんといっても年齢はそう違いません。毎日暇さえあれば海岸のカフェで一緒にお茶をしました。海からの心地よい風に吹かれながら、発掘作業の疲れを癒す。特に有意義な会話をするわけではなく、基本的には同じ発掘チームの仲間をモノマネで揶揄してキャッキャしてるだけなのですが、たまに「日本人にとって天皇とはどんな存在なんだ?」とか、日本語でも説明が難しいことを聞いてきたりします。
 発掘調査は平日のみ行われ、週末はフリータイム。ぼくはアンジェロおじさんのご自宅へ遊びに行くことになりました。島南西部の発掘調査地から北へ走ること約3時間。サルデーニャ島第二の都市サッサリがあります。その途中で寄ったのが、ヌラーゲ・サンタクリスティーナです。実はサルデーニャ島フェニキア人の遺跡でも有名なのですが、もう一つ異彩を放つ歴史的側面があります。それが「ヌラーゲ」です。

f:id:seichi_jyunrei:20140704175134j:plainサンタクリスティーナのヌラーゲ


 ヌラーゲは紀元前1500年ごろから建設され始めた建築物で、これを建てた人びとが担った文明を「ヌラーゲ文明」と呼びます。トウロモロコシを半分に切ったような形をしたヌラーゲは、もともと砦であったものが塔に発展していったと考えられています。スー・ヌラージ・ディ・バルーミニバルーミニのヌラーゲ群)は世界遺産にも登録されています。当時このヌラーゲは島内に約12000基が林立していたといわれ、現在でも約7000基が残存しています。サルデーニャ島が「塔の島」と呼ばれるゆえんがここにあるのです。
 サンタクリスティーナを出発したぼくらはサッサリへ。アンジェロ邸は旧市街から車で10分ほど。平日の合宿所生活では得られなかったカロリーを取り戻そうというのか、それとも再びやってくるヘルシー修行期間に備えようというのか、アンジェロおじさんとともにオリーヴ油とチーズこってりのパスタ、リゾット、ピザを食べに食べたのでした。こうしてまた午前中は発掘をし、午後は昼寝をしてカフェを飲む一週間がやってくるのです。
 今回のサルデーニャ島での発掘調査やアンジェロおじさんとの交流は、頭ではなく体で、「何か」の存在を確信させてくれるものでした。それは輝く太陽のなかに、海から吹く風のなかに、アンジェロおじさんがつくってくれたパスタのなかに含まれていたのでしょう。おそらく地中海に暮らす人びとはその「何か」でできていて、古代からずっとその「何か」とのつきあいは世代を超えて人びとのなかに堆積してきたのです。
 地中海世界に住む人びとは、ぼくたちとは異なる時空のなかを生きているようです。その時空の内実はかなり「前近代的」であり、もしかすると「ポスト近代的」、いやむしろこれを「普遍的」というのかもしれません。それは徹底した「人間主義個人主義」と呼ぶことができます。そしてここには人間が勝てない「何か」の存在が自明とされている。人間はその「何か」によって生かされ、怒り、悲しみ、喜ぶ。
 ぼくが地中海を求めるのは、決して美味しいワインとチーズのせいだけではありません。その「何か」に立脚した人間のあり方、人間関係が心地よいからなのだと思います。それは姿・形・色・味を変えて、世界中に存在しているはずです。自分の頭ではなく、体が本当に求めるもの。このありかを辿っていくと、そこが自分にとっての「聖地」なのかもしれません。
Profile
青木真兵(あおきしんぺい):古代地中海史(フェニキアカルタゴ)を研究中。好きなものはいちご。
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まさに、今回の企画にふさわしい印象的な投稿をありがとうございます。「頭」ではなく、「身体」が求めるものが聖地ではないか、という問いは、これまでの管理人の少ない人生経験からも感じるところがあります。美しい風景の写真を見ていると、「何か」を求めて地中海、旅してみたくなりますね。
さて、これで「私だけの聖地」の全投稿の掲載が終了しました。これから、内田・釈両先生に原稿をお渡しし、「グランプリ 聖地巡礼峠茶屋賞」「内田樹賞」「釈徹宗賞」の選考をしていただくことになっております。発表は9月中に行なう予定です。こうご期待!(管)

No.20 神様ワンダーランド

 さて、「私だけの聖地」もいよいよ大台のNo.20になりました(パチパチ)。記念すべき回のご投稿は、田中さんの「神様ワンダーランド」です。まさに、「THE 神道」といったタイトルです(笑)。ユーモラスな文章でお気に入りの伏見稲荷をご紹介いただいておりますので、ぜひぜひご高覧ください!

神様ワンダーランド(田中俊典)

 私の「私だけの聖地」は伏見稲荷です。「いやいや、私だけっていうけど、伏見稲荷はいまや世界に知られた観光名所でしょう。」と突っ込まれることは、百も承知ですが、あえてここは伏見稲荷を推したい。多くの人にとっては、観光客にあふれかえる伏見稲荷は、もはや聖地というより俗世間に近いというのも解るのですけど。
 なぜかというと、そこに行くたびに、もう何十回となく出かけていますが、毎回何か新しいことを思いつくのです。インスピレーションというか、ユーレカというか、とにかくそのようなものが降りてくる……っていうほどたいしたものではないのですけど、行く前には想像すらできなかったコトを考えていたりします。おそらくあの場所には不思議なことがいっぱいあって、楽しくて、ワクワクする気持ちを取り戻せるためではないかと思うのです。という訳で「聖地」というものが、「人に対して身体的精神的に何らかの良い影響を及ぼす土地」というふうに勝手解釈を許してもらえるならば、伏見稲荷は私にとってまぎれもなく聖地なのです。
 伏見稲荷といっても私が聖地と言うのは、裏に広がる稲荷山です。伏見稲荷大社の裏手、観光客で混み合う千本鳥居を抜けると、奥社奉拝所があるのですが、鳥居のトンネルはそこからさらに奥へ、稲荷山へと続きます。うねうねと隙間なく並ぶ鳥居は、まるで山の血管のようです。

「……稲荷山全体は実は一つの生命体で、千年以上もの間、鳥居血管の中を進む人間の情念を栄養として息づいているのだ。僕の中にあるドロドロとした感情や欲望もすべてこの山の養分なのだ。すべからく地面で繋がっているという全国に広がる稲荷社の、ここはその中枢。ほら、地面がドクドクと脈打ちはじめた……」

 日頃の運動不足が祟って酸欠状態になるとこんな妄想も浮かんできます。
 ところで、元来は結界を示すモノである鳥居を信者に奉納させてお金を儲けるということを、最初に考えた人は偉いですね。お金は入ってくるし、その鳥居が観光資源になるのですから。さすが商売の神様。
 それはさておきもう少しがんばって行くと「新池」という池にでます。ほとりには無数の小さな社が立ち並んでいて、一種独特の雰囲気が漂います。私はここにある不動尊が好きで、かならずお参りしてから先に進むことにしています。こんな風に寄り道をしながら、登って行くとようやく稲荷山めぐりの起点「四つ辻」につきます。この時点でかなり体力は消耗していますが、あくまでここは「起点」にすぎません。ここから山頂にある上社を通って、峰の裏側の谷をぐるっとまわって、もう一度四つ辻にまで帰ってくるのがルートになります。こうやって山を巡る道には、**社、**明神といった神様がたくさん居られます。定番の縁結び、商売繁盛、学問の神様から、目の神様、腰の神様、といったスペシャリスト、中には道教の神様までおられます。人間の欲望の実に多いこと! 不謹慎かもしれませんが、まさにお願い事のテーマパークですね。実際はすべてにお参りするなんてとてもできませんので、自分の贔屓の神様にだけご挨拶をするのですが、登ったり降りたり、文字通り息を切らしながら巡っているうちに、心の中のもやもやは晴れていき、自然と笑みが溢れるようになるのです(主に膝が)。
 以上が基本的な聖地の味わい方なのですが、もっと他にいろんな楽しみ方があります。
 その一つは鳥居で遊ぶ、です。鳥居には「平成*年一月吉日建之」のように、作られた年月が記載されているのですが、もし自分の生年月に建てられた鳥居を見つけることができたら幸運が訪れる、という言い伝えはご存知でしょうか。多分知らないと思います。というのも私が勝手に考えた話ですから。自分でもなかなかよくできた話だと思うのですが、木製の鳥居は数十年しか持たないので昭和建立のモノはもうほとんどない、というのが残念なところなんですけどね。それにひきかえ、石でできた鳥居はとても長持ちします。中には明治時代(知る限り明治39年というのがありました)のもあって、写真1はその一つ、明治45年のもの。「奇術総長 正天一」なんて書いてあります。調べてみると明治時代の有名な奇術一座らしい。こんなことを見ながら歩くのも本当に楽しいです。

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写真1:明治時代に建てられた石の鳥居


 また、山に住む動物に注目するというのも面白いです。
 例えば猫。意外なことに稲荷山には野良猫が多いのです。しばしば人通りの多いメインのルートから少し外れた脇道にゴロゴロしているのですが、時々鳥居の陰からこちらを睨んでいたり、手水舎の水を飲んでいたりします。そんな猫を探しながら歩くのです。
 それにしてもこんなに野良猫がいて狐は怒らないのでしょうか。かねてからその点について疑問を抱いていたのですが、先日その謎が解決しました。写真2をごらんください。「狐目の猫」です。他に「猫背の狐」も発見しました。つまり猫と狐はここ稲荷山では混血していたのです!(笑)

f:id:seichi_jyunrei:20140628163133j:plain写真2:狐目の猫


 猫以外にもいろいろな動物がいます。夜に訪れたとき(夜の訪問も可能です。けっこうお勧めですがちょっと怖いです。)にはムササビ?が飛ぶのを目撃しましたし、梅雨時にはカエルの鳴き声が谷に響き渡ります。生き物ではありませんが、龍、蛇、馬といった多くの石像達も山を彩っています。
 こうやってキョロキョロウロウロしながら麓まで降りてきたときには、足はガチガチに強張り、頭の中はふにゃふにゃになっています。おそらく山に栄養分を吸い取られてしまったのでしょう。実にさっぱりした気分です。数え切れない人々の情念とそれを受け止める無数の神々。それにおびただしい数の神使とそこに住み着く動物達。まさにここは「神様ワンダーランド」 私にとってはかけがえのない聖地なのです。

Profile:田中俊典
1958年生。生まれも育ちも堺市ですが、京都の街を散策し面白いこと、不思議なことを見聞きすることが大好き。京都はあくまで観光客としてがいい。その方が「面白いこと」を発見できるから。先日、少女が遠足でのことを話していた。「お弁当広げたらなぁ、カラスさんがきはってなぁ、くわえて行きはってん。」この感じが好きです。
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「自分の生年月日を見つけられたら幸運になる」は、管理人もだまされました。く、くやしい……(笑)。でも、いわゆるそんな言い伝えも、管理人のように「だまされた」人間が知らずに広げていく、ってこともあるかもしれません。みなさんもいつもと違った視点で「聖地」を訪ねてみてはいかがでしょう。では、次回で「私だけの聖地」もいよいよ最終回。副部長の「なぜかサルディーニャ」(完結編)です!(管)

No.19 粟島物語

さて、いよいよ19回目の「私だけの聖地」の更新です! 今回は近藤さんの「島」をテーマにした文章です。「釣り好き」の管理人としては、冒頭からなんとも言えない趣です。ぜひお読みください!

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粟島物語(近藤蔵人)

 鶴見俊輔と後に三木首相の閣僚となった同級の永井龍男少年は、それほど仲が好いわけでもない同級生の家を度々訪れた。後年になって、二人が何気なく、お姉さんが美人だったから遊びに行ったと話したが,お前もそうだったのかとうなずいたと書いている。
日本人は、面と向かって美しいですねとは言えないところがある、そのうえ何か後ろめたいと考えるので、若い時には話題にならなかったのだろう。
(そのつつましい伝統に沿わない記述をすることになるが、この物語の性質上、避けることのできない事柄であるし、僕も後年という年代になったので、後程述べることになります)

新潟県の岩船港から船の出ている粟島に、僕が通い始めたのは20年は超えただろうと思う。
当初は、島の東側にある内浦の何軒かの民宿に泊まったが、おやじさんの気持ちが良くて、みなと屋という屋号の民宿を定宿と決めて魚釣りをした。本保姓であった。
何年前だろう、奥尻地震の前日であった。
海が真平らで、少しの波でも乗ることのできない大きな魚が釣れることで有名な磯に、おやじさんの小舟で乗せてもらった。
はるか沖にある磯の名はエンガイグリと縄文時代からの名がついている。
磯の周りは急流で、磯から離れて餌を落とし込むと、エサが流されて水面まで浮いてくる。仁丹ぐらいの小さい重りを磯の際30センチ程のところに落とすと、エサは磯を伝わって、深さ5,6メートル近くまで磯際を漂うことができる。
数時間、磯の際にオキアミの撒き餌を投げ続け、日が落ちる頃に、隣で釣っていた釣り友の竿の穂先が動いたと言う。
その数秒後、僕の穂先が、人差し指ほど沈んだ。
来た!心構えを正して、次の当たりを待つ。
こんこんと手元にも伝わる、それでも穂先は、1・2センチの動きだ。
右手で持った竿を、勢いよく合わせる。
乗った。
魚の重みで、竿がしなる。
魚は、こちらを向いて、針がかかった体を反転させたくて、力が入っている。
竿を操作している右手は、魚の大きさを感じなければならない。
大きな魚を、無理に引き上げようとすると、細い糸は切れてしまう。また、ゆるめたままだと、魚によっては岩陰に潜り込まれてしまう。そのほんのちょっとした瞬間に、魚の種類と大きさを判断しなければならない。
瞬時の判断時間にも魚は反転して、沖に向かって体を移動させた。
かかった魚は、針を外したくて、頭を振り続ける。
鯛だ。
竿がごんごんと震える引きを見せるのは、鯛に間違いない。
この力だと食べごろの大きさの鯛だ。
40センチほどだろう。
沖へ走る鯛を、竿のしなりが止める。
左手でリールを巻く。
鯛が嫌がって、精一杯の力を振り絞って底に潜ろうとする。
今年読んだ、魚に痛さがあるかと言う本には、魚も哺乳類と同じ苦痛を味わっていると結果が出ていた。
この時、鯛は逃げるに集中して、針の痛さを感じる暇はない。
引っ張っている何者かに捕まらないように沖へ沖へと感じているだけだ。
力を使い果たすと、鯛は糸に引かれて、海面に姿を現す。
タモに収まった赤い魚体には、冴えた水色の斑点が光っている。
目の周りにも、美しい水色が映えるが、その眼は何を見ているのだろう。
メガネをかけ髭が生えた僕の顔は見えているだろうか。
空気に触れて徐々に息苦しくなっているのだろうが、人には、魚の死に行く苦しみを感じることは出来ない。感じる経験を持たなかったのだ。
えらの横にナイフでとどめを指す。
暗くなって、みなと屋のおやじさんが迎えに来て、「血が湧いただろう」と僕に声をかけた。
漁師も、良い魚を取ると血湧き肉躍るのだ。
血が踊る興奮のある職業は他にあるだろうか。
この島を訪れて、釣りや磯遊びで都会の邪気を払い,生気を充満させると、一か月は元気に生活できる。
聖地とは、自然が過剰な勢いで我々の胸深く侵入する場所であると思う。
仙人は霞を食うと言われるが、滝壺などで竿を出して魚釣りをしている図では、中沢新一によると、宇宙とコンタクトを取る方法として、座禅ではなく釣り竿に意識を集中しているという、その場所を聖地に変えているのだと思う。
後白河法皇が、京都から熊野参りの遊行に出かけた回数は、在位期間中34回だと言う。熊野にこもり、生気を充満させ京に帰って政治が行われた。熊野古道を輿に乗ってはいるとはいえ、相当きつかっただろうが聖地巡礼にはそれほどの効果があったと言うことだ。
旅館もなく、スナックもなく、ただ、自然遊びするだけの島である。

翌日、津波粟島を襲い、船が打ち上げられたと、電話で知らされた。
一日遅かったら、海面数十センチに浮かんでいるエンガイグリでは、生きて帰れなかった。

内浦では、船で磯に渡してもらわないと釣りたい魚は釣れないが、粟島の西北の釜屋では歩いて行ける地磯でも鯛が釣れると教えられた。
粟島には、大きな船が停泊できる東側の内浦と、小舟しか止めることのできない釜屋と二部落ある。
内浦には、本保・脇川・菅原など、釜屋は渡辺・松浦・後藤・大滝などと苗字が別れており、内浦と釜屋では、方言が違っているとも指摘される。
嘗て、征夷大将軍坂上田村麻呂の東北征伐から逃げてきたといわれる蝦夷・縄文人が、粟島に住んでいたという。大陸から歩いて渡ったと言う説もあるそうだが、粟島の先住民は縄文人であった。
モンゴロイドと言われる縄文人は、目鼻立ちがはっきりして言語学者でアイヌ研究者でもあった金田一京介も縄文人を西洋人と間違って認識していた。
アフリカからチベット雲南を通って日本にやってきた縄文人は世界でも最も早く土器を制作した文明の先駆けの民であった。
代表的な縄文顔は、女姓では吉永小百合、男性では夏目漱石といわれている。
粟島では、9世紀初めに(ウイキペディアによる)水軍・海運を営んでいた松浦一族が縄文人のいる内浦に住み始めたといわれている。その後越前あたりから本保一族が内浦に住み、松浦・渡辺を釜屋に追い立てたとある。
縄文人は、追い払われ、吸収されて純潔を保てなくなった。
かつては、粟穂といわれ、粟生島と呼ばれるが、谷川健一が黄泉の国、死者の国を青の島と言い、それが粟に変わったのだろうと書いている。
なるほど、本土から見る島は青く沈んでいる。
釜屋の松浦家と渡辺家は、縄文と混血したのか事情は定かでないが、明治時代に粟島の民は、女性は眉目秀麗で、男は体格偉大強健にて容貌和順と記されている。内浦ではさほど感じなかったが、釜屋では、この特質を感じることになる。
モンゴロイドである弥生人は、氷河期を生き抜いた顔、目が細く顔のでっぱりが少なく、卵型で、中国、韓国人に近い顔の形、古モンゴルとは異質な顔型である。
粟島の松浦・渡辺の人たちは、古モンゴルの特質を持っていると見受けられた。
天皇家も海人の出自と言われるが、古モンゴルに近かったのではないだろうか。

ある日、釜屋の民宿渡佐の前の路地のベンチに座って釣りの準備をしていると、
「あら、そんな恰好して、お、ほほほ」と、
靴の上から水が入らないようにしたカバーを指して話しかけてきた人がいた。
見あげると、この辺鄙なところに、気品があり、上品な小柄だが美しい人がいるのに驚いた。
のちに、釜屋の初めての民宿・市左衛門に予約して、内浦まで迎えを頼むと、その女性が運転していた。
この部落に、ちょっと毛の抜けた釣り師がいるだろうと、口の悪い釣り友が声をかけた。子供を見つけると追っかけまわし、はなっぺなどと子供を呼んで遊んでいる。
彼が大きな石鯛を釣り上げたところを見たことがある。
素足にサンダル履き、帽子もかぶらず、玉網も持たず竿のしなりで上げようとして竿の真ん中から、ばきっと音がして折れた。そのあいだ、なにやら奇声をあげはしゃいでいる。魚は無事で石鯛がかかったテグスを取って僕たちに魚を見せた。
顔は、やさしそうだけれど鬼のような顔をしている。
それ、私の兄です。と、その人は、明るく言った。
響きのよい声だった。東南アジアで鳥の美声の競技があるが、こんな声なんだろうと想像した。
名はと尋ねると、
松浦ですが、部落の人は,おんちゃと呼んでいます、と言われ、魚釣りのいい場所へ案内してくれると思いますと言った。
それから20年近く、粟島に行くと,市左衛門に泊まって石器時代人の彼と魚釣りに行く。
僕の友達も、その宿で知り合った常連の方たちも、女将の美しさを事上げすることはなかった。
それは、鶴見俊輔たちが、交わさなかった会話と同じ状態であろうと想像できる。
目の前の女性の美しさは言葉にできないもので、常連の方も、無意識に落とし込んだだけだと思われる。
平安時代、日本の女性の美しさは、しもぶくれで引目鉤鼻と言われ、新モンゴロイドである弥生人の顔が理想とされていた。西洋人顔の縄文人は、ディホルメされて鬼の顔になったが、征服された民の宿命なのだろう。
おんちゃの顔は、縄文人の特質をよく現している。
木村伊兵が、昭和30年に撮った秋田の早乙女の美しい写真があるが、(その人の絵を描いたことがある、)際立った美しさで、西洋での絶世の美女とは表現が違うが、よもや、田舎の農家の娘が、これほどの美しさを持って生まれてきたのかと驚くが、彼女の美しさは、これもまた縄文人の特質であろうと想像できる。
子供が本土に住み一度は外に出たが、別れて帰ってきて、民宿の女主として采配を払っている。
民宿に泊まっていると、漁協に務めている彼氏がくる。
その彼が、渡辺栄という渡辺星と言う家紋の人物で恰好が良い。
栄さんのお父さんはもっと美男子だ。若いころは映画俳優にでもなりそうなほどである。
弟の学君も整った顔をしている。そういえば、彼ら三人は僕の絵のモデルになって、絵は彼らの家にある。女主人の絵もあるが、ずいぶん時間がかかって描いたものだが、疲れているのか、悲しんでいるのかそういう表情であったが、女主人は、嫌がって見たがらない。当然、網を上げているおんちゃの絵もある。そういえば、粟島で描いた絵は、縄文気質にあふれた顔を選んで描いていたことにいまさらながら驚いてしまう。
渡さのたいちゃんも、そのおばあさんも、市左衛門の隣のキヨシ君は高倉健の少年時代の顔をして、その父親は、胸が張って武士の体つきに表情をしている。アル中のおじさんも、若いころはモテただろうと想像する。いつぞや売店金ベエで休んでいると、どこかの民宿のおかみさんが横に座り、話しかけるでもなく、ここではお化粧しなくていいから楽だよと言う。整った顔には必要ないと納得した。

家紋の渡辺星は、嵯峨天皇(786-842年)の子の源融(とおる・822-895年)という光る源氏のモデルになった人物、その5代のちの源の綱(953-1025年)の一族だけの独占家紋である。黒丸の星三個、下に一文字、嵯峨源氏渡辺綱流とされている。栄さんの家の家紋である。
天皇は、女房を数十人持ち、子がその倍は生まれた。
すべての子供を天皇籍に入れると、財政上に問題があるので、数人の子を籍に入れ、その他は、「汝のみなもと(源)は朕に発する」として、源姓を授けられた。
だから、綱も直系の子孫に変わりはない。
50人もの子を持った嵯峨天皇の子孫はみな一字名とされている。
栄さんも学さんもその千年の伝統一字名を保持している。
全国には、渡辺姓は10番目に多い姓だが、そのうちの所々で、節分の豆まきをしない渡辺家がある。
源の綱は、4天王と言われ武力の誉れ高かった。
源頼光に使えて、大江山酒呑童子(鬼とも山賊とも言われているが、新潟の山から出たとも言われている)を退治、京都の一条戻橋の上で羅生門の鬼の腕を名刀髪切りの太刀で切り落としたと言われている。
そのため、のちに渡辺家になる源綱の直系には鬼が怖くて寄って来ない故、豆まきの必要がないのだ。
粟島の渡辺家は、隣近所で豆まきしても、豆まきをしないこと続けて千年。ため息がでる。
源綱は、母親の姓である渡辺を継いだ。そして、渡辺綱を名乗る。
渡辺は、大阪、摂津、渡辺津で、渡し守や、水軍の渡辺党を起こし、義経屋島攻めの戦いに参加している水軍である。今でも大阪には渡辺と言う地名があり、駅がある。
主神は大阪にある坐摩(いかすり)神社、神主はもちろん渡辺姓である。
また、松浦姓は、源綱のひ孫、久(1064-1148年)が、北九州松浦に御厨検校を命ざれ土着し、松浦を名乗ることになったが、肥前の豪族として松浦党はさかえたが、嵯峨源氏渡辺流であることに変わりがない。久以後、松浦党を名乗り、今でも松浦半島松浦市と地名がある。
故に、松浦姓も嵯峨天皇の子孫、そして渡辺姓と密接な関係があるが、本土では、渡辺と松浦は、それぞれ別々に存在するが、この粟島にだけ、松浦、渡辺が、共存するのは何故だろう?
彼らは、日本海沿岸にて海運業を営み、その途次粟島に立ち寄り居ついたのだろうか。
それとも、戦に巻き込まれて逃げてきたのかもしれない。
源の綱と、久の関係の記憶が濃厚なため、ここ粟島にだけ両家が共生していると考えられる。
明治には、漁業は自分たちの食べる分だけで、その当時は、10町7反の稲作を共同で耕運し、収穫を分け合ったとある。(現在は大地震で水が枯れ耕作していない)畑も狭いながら作物にはありついたと思われる。
内浦は、西北にある山が風をさえぎるため、北海を航行する汽船も大型和船も海上不穏になれば立ち寄った。佐渡の小此木港と内浦が、北前船のお助けの港と言われた。

西暦800年代から(ウキペディアによる)、渡辺の綱・久が生存しているかもしれない平安時代に松浦・渡辺家が粟島に居つき、本土の両家のように混血することなく、ほとんど純潔に源の血筋が続いた松浦・渡辺家は天皇家と同じ姿に近い形態で現在まであると想像できる。
光源氏のモデルとなった源の融、左大臣になったとあるが、色好みの美男子で才覚優れていたようだ。松浦も渡辺もそれゆえ、かつての貴族らしい美貌な姿を留めているのだと思われる。
粟島には、かつては群遊する馬がいた。本土で源義経の乗っていた馬を離したところ、粟島に泳ぎ着いたと言われる馬の子孫と言われている。源恋しと言う心情が現れている。

地方消滅がいわれる。
2010年粟島の人口366人、出産年齢である20才の女子14人、
2040年人口163人20代の女性2人、と粟島の人口推移が記載されている。
日本で15番目に消滅の可能性の高い市町村とされている。
若年女性人口変化率は-83.2パーセント。
人口統計の予想は、大きな変革がない限り、ほぼ間違うことがないそうだ。
「地方再生を、高度経済成長時代の論理や、企業社会の枠組みでイメージしようとしてもなかなか難しい。むしろ農山村の足元に眠る記憶の古層を掘り起こしてみると、何かヒントが見えてくるのではないか」と、記事があった。
そこで、粟島は、天皇家以外で天皇の最も濃い血筋と考えられること。
紫式部が書いた光源氏のモデル源融という血筋、いまだに鬼が近寄って来ないために鬼退治の豆まきをしない源綱の伝統、絶海の孤島であるが故の純潔を保つことが出来たことを寿ぎ、それらの物語を作ることが出来そうである。

現代人は、外来から影響を受けたものを排除して、本来の形を求めたいと切に願っている。
力の源であるプリミティブな聖地にこもり、野生の力を賦活させたい欲求を持っている。パワースポット巡りがその表れだと感じるが、粟島の住民は、古代からの力を温存して、千年を越している。その古代性に我々が訪れて力を得る理由がある。
人工物の何もない海原に浸ることによって与えられる力もまたある。
仙人もなす魚釣りは、竿先一点に集中することによりトランスが起き、感覚のままに心を広げる瞑想の儀式と同じである。座禅を組むより瞑想しやすい利点がある。
魚釣りは、釣れなくても楽しいのはそれ故である。
そして、生気を取り戻してそれぞれの地元へ帰っていく。
そんな環境に囲まれた粟島浦村という共同体には物語が必要である。
次世代に伝える、全員が共有できる物語。
その物語を、記憶の古層から掘り起こしてみることによって、世界へ向けて発信できる。
嵯峨天皇.源の融、源の綱(渡辺綱)、源の久(松浦久)、彼らの血筋は、良い物語となるだろう。

Profile:近藤蔵人(こんどう くらひと)
昭和26年徳島・喜来町生まれです。大阪に預けられた時期を過ぎて、神戸で家族と高校生活を過ごしました。現在は、群馬県伊勢崎市で、糊口に建築業を営み、頭の中は、音楽と、映画と、文章におぼれた、芸術至上主義なところを持ち合わせた老人です。私が粟島を描いた絵は以下のHPで見ることができますので、よろしければご覧ください。
http://www.go-isesaki.com/kondou_prof.htm#top
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読み応えのある文章ですね。粟島……次回の「聖地巡礼」でもうかがう予定の佐渡にも近く、何かミステリアスで期待も高まります。近藤さんは絵も本当にお上手なので、HPもぜひご覧くださいね。では、次回も引き続きお楽しみください!(管)

 

 

No.18 とっておきの聖地

 さて、6月に入り、「私だけの聖地」の投稿期間が終わりました。みなさま、たくさんのご投稿、ありがとうございました! 仕事のあいまを縫って更新させていただきましたが、最終的には20回を超え更新をさせていただくことができそうです。あと1か月ほど更新を続けさせていただき、両先生にお選びいただいた上で、「聖地巡礼峠茶屋賞」などを発表させていただければと思います!
 ということで、今回は徳島に在住の千鳥さんのご投稿です。大学時代に過ごされた山口市の街並みをめぐる文章です。
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とっておきの聖地(千鳥)

 私には、とっておきの聖地というものがあります。 
 その場所とは、山口県山口市「国宝 瑠璃光寺五重塔」を始点に広がる限定的なエリアなのですが、その場所には一帯を聖地たらしめる要所がいくつか存在します。
 まず、瑠璃光寺の少し北東に位置するのが、およそ500年前に造られたという「常栄寺雪舟庭」です。この場所は、室町時代守護大名であった大内家の第14代当主・大内正弘氏が応仁の乱で敗れた後、山口に戻った際に水墨画家の雪舟に造らせた庭園だそうで、約900坪という広大な土地に池泉廻遊式庭園と呼ばれる美しく、そして物語性を備えた庭が広がります。
 雪舟と大内氏の親交は深く、雪舟が明国へ修行に行く援助をしたことに始まり、帰国後、応仁の乱で荒廃した京の町を避け大内氏を頼り、山口の地で創作活動をしたそうです。
 次に、雪舟庭から国道を隔ててすぐの場所に位置するのが、私のかつての学び舎「山口県立大学」です。1941年に女性専門学校として設立され、現在、入学定員がおよそ300名という小規模な公立大学です。学舎は緑に囲まれ、夏でも研究室の窓を開けておくと、ひやりと肌に心地よい山風が入るのです。そして最も居心地がよい場所が、構内で唯一レンガ造りの図書館です。照明は暗く、しかし窓から差す柔らかい陽の光が、整然と並ぶ本の数々を照らします。それらの圧倒的な力に自分の非力さを覚えながらも通わずにはいられない場所でした。
 続いて、山口県立大学から南西に位置するのが、キリスト教の宣教師フランシスコザビエルの来訪400年を記念し、昭和26年に建てられたという「ザビエル記念聖堂」です。
 天保18(1549)年、キリスト教を布教するため来日したザビエルですが、鹿児島や京都ではそれが叶わず、その後に立ち寄った山口の地で、第31代当主・大内義隆氏により日本で初めて布教の許可を与えられたそうです。その所以から、この場所には日本最初の教会が建てられ、また日本最初のクリスマス(降誕祭のミサ)が行われたそうです。今でも、記念聖堂で15分おきに鳴らされるカリヨンの鐘が毎日、山口の町に響くのですが、その響きはここで暮らす人々の生活に根付き、そして同じ瞬間に、ひとつの響きを共有する人々への祈りに似た感覚を想起させます。学生時代、あの鐘の音を耳にすると、自分以外の誰かのことを想わずにはいられなかったことを思い出します。おそらく、私たちがその鐘の音から、大内文化の礎でもある、外からやって来た異邦人や異文化を受け入れようとする想いと、各地で迫害を受けながらも異文化で暮らす人々に対し、救いの教えを説こうとした宣教師達の想いを、時を越えて鮮明に感じ取るからなのでしょう。
 また、ザビエル記念聖堂のすぐ近くを流れるのが「一の坂川」です。この川は、第24代当主・大内弘世氏が、山口の街づくりを行う際に、京都の鴨川に見立てて整備した川だそうで、春になると両脇に植えられた桜の木が満開の花を咲かせ、また季節が移り初夏になれば、天然記念物のゲンジボタルが乱舞する様子が見られます。これは、京より迎えられた弘世氏の妻が都を懐かしみ偲ぶ姿を見て、何とか妻を慰めようと、宇治から取り寄せたゲンジボタルを放したことが起源だと言われているそうです。小さい川ながら、その川を造るに至った弘世氏の、街に暮らす人々への想い、また妻への想いは現代にも受け継がれおり、町の人から大切に守られ、生活の一部として誰もが記憶する場所となっています。
 そして、一の坂川を北上した場所に位置するのが「国宝 瑠璃光寺五重塔」です。瑠璃光寺は山口市を見渡せる小高い山に位置し、五重塔は寺のシンボルとなっています。この五重塔は、応永の乱で敗死した第25代当主・大内義弘の菩提を弔うために、弟の第26代当主・盛見氏が建立したといわれるもので、その美しさは日本三名塔の一つにも数えられ、東京スカイツリーを造る際のモデルのひとつにもなったそうです。
 その姿は、京都などで見られる華やかで圧倒的な存在感を持つ五重塔とは異なり、ただ静かに町の安泰を願うような姿に見てとれます。この五重塔を愛した作家、久木綾子氏がその魅力について「瑠璃光寺の五重塔は私には、この世とあの世の境に立つ、結界に見えました」と表現したそうですが、まさに私たちはこの五重塔を目の前にした時、古来この町を造り、守り続けて来た人々の想いに出会うことができるのでしょう。
 私がこれらの場所を巡ったのは、大学3年生の時でした。人生における学びの師でもある研究室の教授が最初に行ったゼミの授業が、教授とともにこれらの場所を歩いて巡るというものでした。 
 学生誰もが断片的には訪ねたことがある場所を、改めて巡ることにどんな意味があるのか、当時の私には理解できませんでしたが、教授は涼しい顔で「自分たちがこれから学ぶ場所をよく知りなさい。そしてこの先きっと学ぶことに迷う時が来ます。その時には、この場所に立ち返りなさい。」と言われました。教授が言うとおり、学ぶ中では多くの壁にぶち当たり、心の中はひどく荒れ、自分を失いそうになることもありました。そんな時、絶望的な想いを抱えながら、なすすべもなくひとりでその場所を歩き、鐘の音を耳にすると、不思議と心が静けさを取り戻し、身体が軽くなり、学ぶことの原点に立ち返ることができたのです。
 この文書を書くにあたって知ったことですが、大内弘世氏はかつて山口の町を造る際、風水に基づき町に四神(青龍・玄武・白虎・朱雀)の象徴を配置したそうです。
 二十歳そこそこの学生であった当時の私は、そのような町づくりの所以など知る由もありませんでした。ただ、その場所においては自分が「守られていている」ということ、また、物理的には何の境目がなくとも、ある一定の場所を越えると「外に出てしまった」ということが、体感的にはっきりと分かっていたのです。この様にその歴史的・文化的背景を知らずとも、「ここは聖地である」ということが体感的に感じられる場所こそ、聖地である所以だったのだろうと、今になって分かるのです。
 大学を卒業後、山口の町を離れた今でも、自分の中に迷いや混乱が生じた時、目を閉じ、あの場所を巡る感覚を思い起こすと、不思議と顔を上げ自分が進むべき道を探る落ち着きを取り戻すことができるのです。それが、私にとっての「とっておきの聖地」です。

Profile:千鳥
徳島県在住。毎日仕事をしながら、束の間の休日には、音楽鑑賞・能の鑑賞・読書に明け暮れることを楽しみとする30歳です。

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「この場所に立ち返りなさい」というのは、とても素敵な響きですよね。なにか千鳥さんの教授の凛とした姿が脳裏に浮かんできます。そんな場所、自分にはあるかな~とちょっと考えたりもしました。ではでは、次回の「私だけの聖地」もお楽しみに!(管)

No.17 橋の向こう側の鳥居

さて、管理人です。またまた更新が遅くなってしまいました。申し訳ありません……って最近お詫びばかりですね。でも、投稿締め切りは、5月末日に迫っております。投稿をお考えの方はお急ぎくださいね! ということで、久しぶりの更新は、amicoholicさんからの投稿です。誰もが知っている光景のなかには、人それぞれの「物語」があるものだと思います。

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橋の向こう側の鳥居(amicoholic)

 物心ついて初めての聖地旅行は、広島県・宮島の厳島神社だった。父が海べりで記念写真を撮ってくれる際、鹿にもっと寄って寄ってと言われて寄っていたら、気づくとおニューのワンピースを鹿にかじられて離してもらえず大騒ぎ。やっと離してもらえたものの、ワンピースに穴が開いてしまったことが、もはや神とも呼べるインパクトある出来事だったが、それと張るくらい、海の中に佇む赤い鳥居は、齢8歳の私でさえも、神々しいオーラを感じた。鳥居の近くに建てられた能舞台を結ぶ廊下は、「あの世」と「この世」を繋ぐものだという、子どもにとってはあまり興味が湧かない、つい流してしまいがちな母親の解説も何となく覚えている。

 その後も、伊勢神宮高野山當麻寺日光東照宮…などなど、私は父と巡った。伊勢神宮では、張り詰めるような光が筋となって目に見えるようなオーラを浴び、高野山では、何度も何度も後ろに何か気配を感じて振り返った。當麻寺では、古来、大和の人々が二上山の向こうに極楽浄土を幻視してきた、その「極楽への入り口」を目の当たりにし、日光東照宮では、不思議なことに高野山で感じた時と似通った気配を「眠り猫」の辺りで感じた。そして、その似通った気配を感じた数時間後の、東京へ帰る列車の中で、父とは、思春期以来の大喧嘩をした。東京に着いてからも喧嘩は続き、銀座のワインバーでも平行線をたどり、それでも終わらず険悪な状態のまま私のマンションに父は泊まった。確か、当時付き合っていた彼氏のことだったような気がするが、今となっては、それは不確かで、「眠り猫」の辺りで感じた気配のほうが強く記憶に残っている。

 5年前に父が脳梗塞で倒れた。一時はICUで意識不明の状態だったが、母が企てたスパルタリハビリ入院プランのおかげで、車椅子と人の介助があれば、何とか旅行ができるまでに回復した。

 父の喜寿の祝いにどこか連れて行ってあげたいな。そう思って父との旅の思い出を振り返ると、聖地が多いということに改めて気づいた。そういえば、倒れる前は屋久島に行きたいなどと言っていた。

 屋久島は遠すぎるので断念し、次に浮かんだのは、8歳の時に連れて行ってもらった宮島の厳島神社だった。近頃では、リハビリのデイケアにさえ行くのを億劫がる父だったが、折り畳み式の車いすを買ったので宮島に行こうと提案すると二つ返事で快諾してくれた。

 もう少し前は、私に迷惑をかけることにさえ躊躇した父だったが、今は子どもみたいに気を遣わなくなっていた。

 30年前と同じ夏真っ盛りの宮島は、観光客と鹿であふれていた。赤い鳥居も鹿のうろつき加減も何も変わらないけど、私の横に夫と娘がいること、私と彼らが交互で父が乗る車椅子を押していることは、「THE30年」の証であった。

 鳥居の近くの海に浮かぶ能舞台に差し掛かった時、デジャブかなというタイミングで、白髪が増えて背が少し小さくなった母が、

「あの手間にある舞台はこの世で、後ろの方にある楽屋は彼岸で、あの世を表しとるんよ。この世とあの世を繋ぐのが橋懸で、此岸と悲願の通路なんよ」

と言っている。

「聞いた、聞いた! それも30年前にね!」

と突っ込みたい衝動を押さえ、敢えて老母には何も触れずに、「へ~」と答え、その解説を頭の中でリフレインさせる。あの世とこの世。

 父は、興味がないようでいて、実は浮世離れした哲学的なことを考えているんじゃないかと思わせる脳梗塞の後遺症“高次機能障害”ならではの無表情で能舞台の彼方を見つめている。そこには、橋の向こう側があり、そのさらに先には赤い鳥居が海に浮かんでいる。

 まだまだ行かないでほしいな、あの橋の向こうに。

 一緒にいるのに、どことなく遠くにいるような父の顔つきやしぐさに、すぐそばで車いすを押す私は願わずにはいられない。

Profile: amicoholic

1975年岡山市生まれ。18歳~22歳を関西に拠点を移したことを機に、神戸・京都・奈良・和歌山・三重などコンパクトな旅をする環境に恵まれ、気付けば聖地好きに。23歳で東京に移り住んでからは、関東圏の聖地にも興味津々。と言いつつ、近年訪れた中で特に好きな聖地は沖縄の斎場御嶽(せいふぁーうたき)。

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同じ場所に行くからこそ、自分が置かれた環境の違いや感じ方の違いに気づくことってありますよね? 何かamicoholicが見えている景色が目の前に見えるような気がしました。投稿、ありがとうございました! ではでは、「私だけの聖地」、まだまだ続きますよ!(管)

No.16 スターリングブリッジ

 いままで以上に更新に間があいてしまいました。申し訳ありません。管理人です。
 さてさて、みなさんからいただいた「わたしだけの聖地」、久しぶりの更新です! 小嶋さんにスコットランドの「聖地」についてご投稿いただきました。もう、国名を聞くだけで管理人は興味津々です。
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スターリングブリッジ(小嶋千尋)

 現在、娘を保育園に預け、都内で働きながら慌ただしい日々を送る私ですが、14年ほど前にはスコットランドスターリングという小さな街で、留学生として厳しくものんびりした時間を過ごしていました。
 市街地にある寮から郊外のキャンパスまでの往復は、通常バスで片道20分くらい。歩くと50分くらいはかかったでしょうか。私は、節約とウォーキングを兼ね、よほどの悪天候以外は徒歩で通学していました。その道中必ず通るのが、古い石の橋、スターリングブリッジでした。
 アーチ構造のこの橋は、角の取れたごつい石畳が足に心地よく、その古さゆえ歩行者専用とされており、街と自然の景観に絶妙に溶け込んでいることから、私の好きな場所のひとつになっていきました。

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(出典:Wikipedia)


 ある日のこと。クラスでのディスカッションの最中に、一人のクラスメイトが、私の稚拙な英語表現を指摘しました。その直後の休憩時間に、別のクラスメイトが私の目の前で、私の英語を指摘した彼に対して、私への謝罪を要求するということがありました。
 その日の帰り道、私は英語の鍛錬を怠っていたこれまでの自身の甘さや不甲斐なさ、明日からの学生生活を、ほとんど呪うような気持ちで鬱々と歩いていました。
 すっかり日も落ちた中、いつもの橋に差し掛かると、下を流れる川の音が耳に入りました。欄干の向こうに目をやると夜の川面が遠い街灯りを反映してゆらゆら静かに揺れています。
  その時ふと、この橋がかつてスコットランド軍vsイングランド軍の激戦の舞台だったことを思い出しました。(イギリスでは)有名なスターリングブリッジの戦いです。
 1297年にウィリアム・ウォレスとアンドリュー・マリー率いるスコットランド軍が、当時この地を統治していたイングランド軍を打ち破った戦いで、この橋はある意味、スコットランド独立戦争における勝利のシンボルでした。

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(出典:Wikipedia)

 甲冑の金属音や兵士や馬の息遣いを思い浮かべながら、静まり返った橋を一人歩いていると、急に、今日自分に起きたことが、教室という小さい箱の中で起きた、とるに足らないことに思えてきました。なんとなくですが、『たったそれだけのことだ』と開き直れてきたのです。
 いま振り返ると、クラスでの出来事は本当に些細なことであり、よくある苦い思い出のひとつに過ぎないことでした。しかし、そのときは深刻の最中だったので、小箱の中の小さな出来事、という発想が少し新鮮で、なんだか救われるような気持ちになったのです。同時に今ここで感じた感覚の方が、日常の延長線上にある思考よりもおそらく大切なことなのだと、根拠はありませんがそう思えたのです。この感覚を忘れないでおこうと思いました。
 それ以降、橋を渡るときにはいつも、心の中の指先確認をするような心持ちで歩くようになりました。前方よし私もよし、腹の底からガッツが湧いてくる感じです。
 靴底の石の感触、ひんやり湿った欄干、鼻腔を刺す冬の空気、夏の乾いた日差し、遠方に聳えるウォレスのモニュメント、背後から街を見下ろすスターリング城。ちょっと思い浮かべれば、そのどれもが、橋の上をてくてく歩いていたときの自分そのまま、生々しく手足や五感に蘇ってくるような気がします。
 と、ここまで書いて、全く関係ない話なのですが、どうしても頭に浮かんでしまう映画のワンシーンがあります。
 映画『ノッティングヒルの恋人』の中で、元カノ(ジュリア・ロバーツ)への未練を断ち切れない主人公(ヒュー・グラント)が、ノッティングヒルのマーケットをひたすら歩くシーンです。カメラはヒュー・グラントの歩く姿そのまま、路上や天候の目まぐるしい変化を捉えながら、春夏秋冬の時の流れをカットなしで映し出すという、少しトリッキーな演出です。
 主人公の変わらぬ頑なさと対象的に、多彩な表情を見せる街の風景。いっぽう見方を変えると、街はあいも変わらずそこに在り、そこを歩く主人公の心情だけが、時の流れの分だけ、悲しみ、寂寥感、諦めと刻々と変化しているともみて取れます。
 主人公と街との間で繰り広げられる見えないせめぎ合いが、そのシーンを印象深いものにし、映画の舞台であるノッティングヒルをノッティングヒルたらしめているのです。
 そこを行き交う人の思いや行動が反芻されることによって、長い年月かけて醸成されている、ということに敬意を払うこと。その姿勢が、聖地を語ろうとするときに、とても大事なのではないかとこの文章を書いていて気づきました(!)。
 少なくともスターリングブリッジは、私にとっては繰り返し歩いて様々なことを感じた場所であり、これからもたまに思いを馳せながら、その時々の自分の心の持ち様を確認したくなる大切な場所です。こっそり心の中とこの投稿の中で『私の聖地』と呼ばせていただきます。


Profile:小嶋千尋(おじま ちひろ):

横浜市在住の42歳。シングルモルトが好きなこととスコットランド留学は関係ありません。75歳になる父は四国巡礼を一人で完遂しました。写真は見せてもらったけど、霊的経験は話ししていないので、今度酒飲みながら聞いてみようと思います。
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小嶋さんの「心の中の指先確認」、そんな気持ちを支えたのは、昔からの風景なんですね。管理人も少しですが留学経験があるので、なにか「腹の底からのガッツ」はわかる気がします。素敵な文章、ありがとうございました! ではでは、「私だけの聖地」、まだまだ続きますよ~。(管)

投稿企画「私だけの聖地」、募集期間延長します!

ご無沙汰してしまっております。管理人です。言い訳ですが、本業の仕事に忙殺されておりました……。
先日、朝日カルチャーセンター中之島教室で行われた両先生の対談にお邪魔させていただきました。いつもながらの「雑談」からはじまり、熊野巡礼でお世話になった森本さんが登場するなど盛りだくさんの内容で、もう2年目になりますが、熊野巡礼の思い出がありありと蘇ってくるような気がしました。内田・釈両先生の了解は得ておりますので、前回と同様、まとまりましたら何回かにわけて掲載させていただきますので、どうぞお楽しみに!
さて、表題のように、投稿企画「私だけの聖地」ですが、募集期間を5月末まで延長いたします! すでに相当数の方の文章を掲載させており、数名の方はまだご紹介できていないのですが、私の周辺でも「どうしようかな」と迷っている方などがおりまして、せっかくだから延長させていただこうかと。
ということで、募集要項などを再掲いたします。引き続き、ドシドシご応募のほうお待ちしております。
来週からは「私だけの聖地」の掲載に戻ります。小嶋さんの「スターリングブリッジ」です!

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【「聖地巡礼 峠茶屋賞」募集要項】

テーマ:「私だけの聖地」

種別:エッセイのような文章(2000文字程度)。写真をつけても構いません。

応募資格:どなたでも。

締切:2015年5月31

発表:20157月下旬~8月上旬

賞品:聖地巡礼峠茶屋賞(1人):菅笠、内田樹賞(1人):杖、釈徹宗(1人):ズタ袋

応募方法:次のメールアドレスに、タイトルを「私だけの聖地投稿」として送付ください。

seichijyunreiblog@yahoo.co.jp

その際、「お名前」とともに、これまでのブログに掲載された文章を見本に「タイトル」「プロフィール」「ブログ掲載用の名前(匿名・実名両方可能)」「写真キャプション」(お送りいただいた写真で必要な場合)をご記載ください。

掲載方法:随時更新予定。締切前にいただいたものも、随時掲載します。

主催:「聖地巡礼 峠茶屋」

*注記1:主催者となっているブログは、数人の有志により運営されています。各人の仕事の繁忙などにより「更新が遅れる」などが発生することが容易に予想されます(もちろん誠意をもって運営しています)。そのため、そのようなこと事態に寛容な方のみご応募ください

*注記2:上記の理由のため、ご応募いただいても即レスなどは難しい状況です。ご容赦ください。

*注記3:これまでご応募いただいた「巡礼部」の文章も当然ですが「選考対象」に勝手ながら入っております。ご安心ください(笑)。

*注記4:できるだけ多くの方の投稿を掲載したいとは思いますが、応募者多数などの場合は運営者によって選定させていただくかもしれません。掲載されない場合でもご容赦ください。また、明らかな誤植などについては運営者側で修正させていただく場合がございます。

*注記5:ないとは思いますが、営利目的、とかはやめてくださいね(笑)。

豪華景品のご紹介!

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聖地巡礼峠茶屋賞

まずは、メインの賞であります「聖地巡礼峠茶屋賞」です。両先生のサイン入りの「菅笠」。これをかぶって巡礼すれば、「同行二人」ではなく、「同行四人」になること間違いなしですよ!

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内田樹

次は、内田先生の名を冠した「内田樹賞」です。こちらは「杖」。「聖地巡礼」をする際、どこかで必ず「杖がほしいなあ~」という場面が出てきます。実用性はほとんどないとは思いますが(笑)、両先生のファンなら垂涎の的でしょう。 

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もちろん、両先生のサイン入りですよ!

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釈徹宗

続いては釈先生の名を冠した「釈徹宗賞」です。賞品は「ズタ袋」。いやあ、なんともいえない味わいがあります。内田先生が「実用性もある」とおっしゃられ、実は一番人気かもしれない逸品です。

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裏面にはもちろん……

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